記録:2021-4Q

毎月書くのはしんどいからと四半期ごとにまとめることにしたのだったが、自分でも予想だにしないペースでいろいろ楽しめてしまって、これならやっぱり頻度を上げて小出しにしたほうがいいかもしれない。10月から12月の記録。

■書籍

岡田淳『こそあどの森の物語 6 はじまりの木の神話』

劇団四季のファミリーミュージカルの原作になっていて読んだもの。原作に忠実に表現しているところ、劇団四季なりのオリジナリティを付加したところ、それぞれが見えておもしろかった。ミュージカルでホタルギツネを関西弁にしていたのは粋だなあと思う。

中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』

ドラッグをやってこれを書けるようになるならドラッグやりたいよなあ、と思いながら読んでいた。酩酊したところで、私にこれが書けるはずがないのだけど。寿命を終えた星が爆発するように、意味のあった文字列が霧散して、欠片が引力にみちびかれてふたたび輝きだしたような、そんな印象をうける言葉のつらなりだなと思う。

国木田独歩牛肉と馬鈴薯・酒中日記』

親友と海を見に行った帰り、たまたま寄った飲み屋が、古本屋も兼ねていた。料理が運ばれてくるまでのあいだ、空腹をまぎらわそうと書棚を見ていて、美味しそうな題に惹かれてつい手にとった。前の所有者の書き込みがたくさんあって、それもまた愉快だった。文芸評論家の中村光夫による解説を興味深く読んだ。曰く、明治文学は文飾を重んじた技巧的な作品が多く、表現の内容よりもむしろその形、伝統的な文章の美感が重んじられたなかで、独歩の短編は文章の効果に頼ろうとせず、よくもわるくも素人くさく、それこそが同時代の作家と比較したときに彼のユニークさだったのだ、という。実際、この作品ではじめて独歩の文章に触れた私は、その平易な文体におどろいた。近代文学って、もっと姿勢を正して読まねばならないような気になるものだったのだけど、これは違う。中村光夫の表現を借りるならば、この「有るものをそのまま投げ出すような文体」には、ふしぎと親しみをおぼえた。内容より形式を重視しがちで、堅牢で精緻な文体の文章に惹かれやすい私にしてはめずらしいことだ。百年ちかく前のひとでありながら、2021年に生きる私と、案外変わらないのだな。そういうたぐいの親しみやすさ。表現を練るよりも、自身の内側にあるものが手をすりぬけてしまわないうちに書いてしまおう、とでもいうような性急さを感じさせるところが、人間くさくて好きだと思った。『武蔵野』もゆかりのある土地なので読んでみたい。

谷川俊太郎『ひとり暮らし』

こういう、背伸びをしない、飾らない、気取らない文章を書けるようになるのは、やはり年月の為せる技なのだろうか。

私は一篇の小説の真価はその文体にこそ表れると信じている。(略)強いて言葉にするなら、それは作家の生きる態度とでも言うべきものだろうか。

この一節を読みながら、好きな声優のことを考えていた。好きな声優にかぎらず、私が自覚的に愛するひとびとの多くは、言葉をつかうことに長けているひとびとだ。そのひとがどう言葉を使うか、どんな言葉を選んで、どんな言葉を選ばないか、そこには直接語らうよりもはるかに多くのものが見えると思っている。けっきょく私は、創られた世界の中身よりも、その世界を創り出す人間のほうに興味があるのだろう、というのがここ最近考えていることだ。生きている人間がいちばんおもしろい。そこは好きな声優と違うところかも。

ヴィクトル・ユゴーノートルダム・ド・パリ(上)』

電子書籍で購入して数ヶ月かけて読んでいたが、最後の何章かは図書館で借りて読んだ。やはり紙の本のほうが負荷なく読める。第3編『パリ鳥瞰』でのパリ市街の詳細な描写、とくにロマネスクからゴシック、ルネサンスという建築様式についての説明は、世界史がからきしだった私には難解なところもありつつ、興味深く読んだ。物語が進展するのはどちらかというと下巻のようなので、5月の劇団四季の『ノートルダムの鐘』の再演までに読みきることを目標にしつつ、大事に消化していきたい。

太宰治人間失格

二次創作の題材にしたくてひさしぶりに再読。二次創作はデータが消し飛んだので未完。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食い違っているような不安って、昔たしかにあった。今はもうない。たとえ違っていたとしてもどうでもいいと思えるくらいには、今の私は元気。太宰に共感できなくなって、私はおとなになったんだろうな、と思った。

弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。

自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の笞を受けるために、うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。

桐野夏生『砂に埋もれる犬』

寂寞とした装丁のうつくしさに惹かれて手に取った。ひさしぶりに、頁を繰る手が止まらない、という経験をした。読んでいて呼吸ができなかった。つらいけれど、つらいと感じていながらも「向こう側の物語」として読み進めることをやめない自分、物語を享受できてしまう自分が存在するということが、刃みたいにずっと喉元につきつけられているみたいだった。こういう世界はたしかに存在するのだろう。だろう、としか書けないのは、私の暮らしてきた世界は、この物語に描かれる世界とは重ならないところだからだ。この作品において、私が読者でいられること、傍観者でいられることそれ自体が、持てる側たる私の特権なのだ。帯の推薦文には、「圧倒的リアリズム」とある。なるほど、この世界の現実を知らない私には、この紙面の向こう側に広がる虚構の世界がリアルに見える。少年の心の動き、彼の内側にミソジニーが形作られていく経緯にすさまじい説得力を感じる。すくなくとも、これが書かれなければ、私のようにこの世界の片鱗を知ることすらなかったひとがいる。だから、こういう物語が書かれることには意義がある。一方で、これで、これを読んだだけで、「この世界」をすこし知れたような気がしてしまう自分が、その傲慢さがこわい。書くことはやっぱり暴力なのだと思う。何かを書くということは、書かれない何かがあるということだ。私には、書かれた物語を目撃することだけしかゆるされない。「この世界」の「書かれなかった側」を知ることができない。リアルとリアリズムの間隙にあるものを矮小化してはいけない。

□染井為人『悪い夏』

「最低にして最高」「クズとワルしか出てこない」「鬼畜ノワールサスペンス」という帯の宣伝文句に安直に惹かれて手にとった。帯に偽りはなく、疾走感があってたしかに楽しめた。クズもワルも救いようのないのだが、それこそをいとおしく思わせるのは文才だろう。ただ、終始釈然としない気持ちを持て余したのは、たぶん、フラットに書こうとしすぎた結果なのだろうと思う。あと、フィクションにこういう立場を持ち出すのはもしかすると卑怯なのかもしれないけれど、物語と現実世界の重層構造を考えたときに、生活保護の不正受給にフォーカスを当てて描くことがすごく危ういなと思って、それをフィクションだからとエンターテイメントに落とし込んでしまうのにずるさを感じた。終盤のほうで「ほとんどの受給者は不正受給じゃない」という一節が申し訳程度に出てくるけれど、あれがなかったら私はこの作品のことをゆるせなかったと思う。

□北村紗衣『批評の教室 チョウのように読み、ハチのように書く』

はじめから終わりまで、あますところなくおもしろかった。プロローグの最初の数ページから、「これが私の読みたかったものだ!」という気持ちを満たしてくれるもの。実践してみたい、と思いつつ、ファーストステップの精読というのが何よりも難しいのだよ。

佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』

硬質な文体もあって、一度読むのを挫折していた本。まがりなりにもジャズをたしなんでいた人間として、この曲を題に冠した作品をそのままにしておくのはしのびない、という消極的な動機で再読をこころみた。読むのをやめた過去の自分が信じられなかった。一息に読んだ。この著者の別の著作について、解説者は「思わず著者が日本名であることを確認してしまった。なにしろ、滅びゆく西欧の貴族社会を、『外』から書いている気配がまったくなかったのだ。」と述べているが、私もその感覚を追体験した。翻訳小説だったっけ?と思わされるほど、その光景を見てきた人によるものに違いない、と思わされるほど、登場人物がいきいきと動き回っていた。読み終えてはじめて、自分が泣いていたことに気がついた。これはいつかまた読み返したい。

米澤穂信『本と鍵の季節』

好きな声優が最近この著者の作品を読んでいる、と紹介していて、そのうち読もうかなと思っていたところ、出張帰りに新幹線のホームの売店で見かけて、いきおい購入したもの。けっきょく新幹線の中はほとんど眠りに落ちてしまい、在来線に乗り換えてから読んだ。アルコール度数のひくい酒を飲んだときのような感覚。味は良く、するする飲めてしまうが、酔えない。もっとくらくらに酩酊したい。でも、ほろ苦さが残る後味で、謎がとけた爽快感だけで終わらないのが良かった。

長野まゆみ『レモンタルト』

これまで読んだなかではいちばん好きだった。義兄に対する淡い感情、そのうしろめたさ。明示されないけど仄かに匂う感情、みたいなものが好きだ。

□門井慶喜『キッドナッパーズ』

好きな声優が読んだ、と話していたのを耳にした数日後に図書館に行ったら、たまたま目が合った。本と目が合う瞬間というのはある。内容はあまり刺さるものがなかったかな。

大島真寿美『香港の甘い豆腐』

地元の図書館で「おいしい作品特集」をやっていたなかで目に留まった。香港という土地に強い思い入れがあるので。もっとあの匂い立つような、生気に満ちたぎらつく街の描写を期待してしまったのだが、主人公が高校生の少女だったからか、あまり感情移入も共感もできなくて、作品としての印象はあまり強くなかった。

マーク・トウェインハックルベリー・フィンの冒険(上)』西田実訳

口調は粗野なのに、詩的で鮮やか。印象に残った場面がいくつもある。なかでも際立って美しいと思った描写。

正真正銘の夏のあらしだ。なかがすっかり暗くなったんで、そとは一面に濃い青みたいに見えて、きれえだった。たたきつけるみてえなどしゃ降りで、ちょっと先の森もぼんやりかすんで、クモの巣みてえに見えた。そこへビューッと風が吹きつけると、森の木がおじぎをして、葉っぱの裏っ側の白っぽいとこがおもてになる。そいつに輪をかけたすげえ風がゴーッとやってきて、木の枝は気が狂ったみてえに腕をバタつかせる。そのつぎには、そとの青がものすごく濃くなったと思ってると、パッとあたりが昼間みてえに明るくなって、何百メートルも先の、ふだんならまるで見えねえくらい遠くの木のこずえが、嵐にもまれて揺れてるのがちらっと見える。たちまちまた真暗闇にもどって、こんどはかみなりがバリバリっと破裂したと思うと、あとはゴロゴロゴロゴロと、まるでからっぽのたるが長い階段を、跳んだりはねたりしながらころげ落ちるみてえに、空の階段を地球の裏っ側まで落ちていくんだ。

筏の暮らしは楽しいもんだ。空を見上げると一面に星がピカピカ光っていて、おらたちはよく仰向けに寝て星を見上げながら、星は作られたものだか、それともただ自然にできたものだか議論した──ジムは作られたものだと思うし、おらは自然にできたもんだと思った。あんなにたくさん作るなんて、時間がかかりすぎて無理だと思ったんだ。ジムは、月が星を生んだのかもしれねえと言った。どうやらそれももっともらしく思われたから、おらは何も反対しなかった。

京極夏彦『幽談』

食事がまずくなる、という言い回しがあるが、身をもってそれを体感したのはこの本を読んでいるときだった。仕事が佳境で食事を用意する気力もなく、近所のファミリーレストランに夕食をとりにいったとき、休憩がてら読んでいたのだが、どうにも後味の悪い悪夢みたいな作品たちに、味覚が鈍ったように感じた。話のオチ、みたいなものを意図的に曖昧にしているのだろうと思った。『十万年』がめちゃくちゃ好きだった、これを中学の頃に読んでいたらたぶんもっと歪んでいたと思う。すこし惜しいような気もする。他人の文章に執着するタイプの人間なら皆こういうこと考えたことあるでしょ。『こわいもの』もそういう類の、おぼえのある思索だった。私はいつからこういうことを考えなくなっただろう。いつから考えずに生きてゆけるようになったのだろう。なんとなくすこしまえに読んだ国木田独歩牛肉と馬鈴薯』を思い出した。死がわからない、という感覚の話。

梨木香歩西の魔女が死んだ

ものすごくひさしぶりに再読した。初めて読んだのは小学生か中学生のころだったはずだから、十五年ぶり近いかもしれない。

魂は身体をもつことによってしか物事を体験できないし、体験によってしか、魂は成長できないんですよ。(略)春になったら種から芽が出るように、それが光に向かって伸びていくように、魂は成長したがっているのです。

自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、誰がシロクマを責めますか。

学校に行けない主人公を肯定する文脈でおばあちゃんがかけた言葉だが、主人公はそれを拒む。

おばあちゃんはいつも私に自分で決めろって言うけれど、わたし、何だかいつもおばあちゃんの思う方向にうまく誘導されているような気がする。

私はこの主人公の感覚がとてもよくわかる。両親は、私が莫大な塾の授業料を払って受験して入った中高一貫を辞めて、高校受験をし直したいと行った時、考え直せということはなかった。私がそれで楽になれるなら、と、高校受験の塾の費用も文句を言わず出してくれることさえした(それがいかに家計にとって負担の大きいことだったのかは、自分が労働で賃金を得るようになってからわかった。恥ずかしいことだ)。そうして入学した高校の選択が間違っていたとは思わない。高校生活はそれなりに楽しかったし、そこから推薦で入った大学も自分に合っていたと思う。あの大学をでなければ、今の仕事にも就けなかっただろう。でもそれは結果論だ。高校へのエスカレーター進学をしないと決めたとき、私は、地元の公立高校を受けるつもりだった。それは私が自分の学力をわかっていなかったからでもあるのだけど、何より、別のところに行ければどこでも良かったのだ。だから、親にそこそこの偏差値の私立高を当然のように志望校として提示されたとき、ああ、と妙な落胆をおぼえたのを記憶している。両親にとって、受験して入った中高一貫を辞めることは許容できても、学力で劣るとされる学校に通うことは許容できないのだな、という落胆を。親が正しいと信じる範囲の道だけを提示されて、その外にある道を私が選ぼうとすることはゆるしてもらえないのだな、という落胆を。それはすなわち、私自身の選択と意思を尊重してもらえないのだ、優秀な私しか愛してもらえないのだ、という落胆だった。そういう親の誘導の結果できあがった自分を誇れるか、というと、すこしためらいがある。ハワイで生きられないとしても、北極を出てみたい、と言うべきだったのではないか、そういう後ろめたさが今でもある。もう十年以上前の感情を新鮮に呼び起こされて、ちょっと苦さの残った再読だった。このところずっと、再読と初読の天秤で揺れていたのだけど、やはり再読は再読で感じるものがあるなあというのを実感することのできた体験だった。読みたいものが多すぎて時間が足りない。

レイ・ブラッドベリ火星年代記

すごく好きだったし、手元においておきたくなった。これはきっと読み返したくなる、という確信がある。サイエンス・フィクションって、あまり読んでこなかった。どこかで、もっと堅苦しい、学術論文みたいにぎちぎちに理詰めされたものだと思っていた。こんなに柔らかくて、わくわくさせられながらも寂寞とした印象を受けるものだなんて知らなかった。もっともっと読んでみたい。

利巧ぶるのは嫌なことだ、と隊長は思った。ほんとうは利巧だとも思わず、利巧になりたくもないのに。うろうろ歩きまわって、計画を立てて、計画を立てたことで、なんだかエラくなったような気持になる。ほんとうは正しいかどうかわからないのに、正しいことをしているつもりになるのは嫌だ。一体われわれとは何者だろう。多数派か?それが答えなのか。多数派はつねに神聖なのか。つねに、つねに、つねに神聖で、ほんの一瞬たりとも誤りであることはないのか。一千万年経っても正しいのか。(月は今でも明るいが)

「何をそんなに一生懸命見ているの、パパ?」
「パパはね、地球人の論理や、常識や、良い政治や、平和や、責任というものを、探していたんだよ」
「それ、みんな地球にあったの?」
「いや、見つからなかった。もう、地球には、そんなものはなくなってしまったんだ。たぶん、二度と、地球には現れないだろうよ。あるなんて思っていたのが、馬鹿げていたのかもしれないな」(百万年ピクニック)

□逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』

へたに言葉にしようとしてこの作品の魅力がそこなわれてしまうくらいなら、私の信頼するひとびとに黙って差し出すほうがよほど雄弁だ。

滝沢馬琴南総里見八犬伝浜たかや

小学生のときに傾倒していて、何がきっかけだったか、ここ数ヶ月ほど読み返したいなと思っていた作品。挿絵が好きだった記憶があったのだけど、複数の出版社から出ているうちのどれを読んだのか定かではなかった。そんな折、たまたま友人が「南総里見八犬伝山本タカトの挿絵で読んだ」とつぶやいていた。これもまたふしぎな縁だなと思うのだけど、山本タカトは、数ヶ月前に別の友人から教えてもらったばかりで、それ以来好きでよく見ていた画家だ。それで絵柄に心当たりがあって調べてみたら、たしかに装丁に見覚えがある。これだ!と嬉しくなって、その日のうちに図書館で全巻予約した。この一年ほど熱をあげているソシャゲ『魔法使いの約束』のキャラクター、シノの名前の由来がこの作品だという説もあって、糸がつながったようでふしぎだ。なんにしても、とてつもなくおもしろい。八犬士のなかでも犬飼現八が好きだったのを思い出して、自分のキャラクターの嗜好が大きく変わっていないことを知って愉快。

舞城王太郎『淵の王』

舞城王太郎作品ははるか昔に読んでいるはずなのだが、ほとんど記憶になかったので、これが初読のようなもの。文体は、ぜんぜん好みじゃない。のだけど、とにかくぐいぐい引きずり込まれてしまって、うわ~本読むの楽し~!!!!と噛み締めながら読んでいた。舞台を観るにあたっては内容をより理解するためにあらすじを積極的に仕入れることが多いのに対して、小説はむしろ前情報をいっさい目にしないようにしている。自分の感じるものが、事前に得た情報に色づけられてしまうのが嫌だからだ。そして、この作品はまさにそういう楽しみ方に向いている。何もわからないまま読み進めていくうちに、ふと、今自分が読んでいるのが怖い話であることに気がつく。その瞬間、ぞっと鳥肌が立つ。そういうおもしろさ。いたるところに読者を不安にさせる仕掛けが仕込まれている感じが良い。まず、開いた瞬間に目に入る目次のフォントサイズからして、不自然で怖い。内容も容赦がない。三篇収録されているどれもが薄気味悪いのだけど、とくに二篇目は出色の怖さで、ちょうど駅で読んでいて、思わずヒイと声を上げかけた。好きな声優はこの著者が好きらしく、ほうぼうで名前を挙げているのだが、なんとなくそれがわかった気がする。馴染みのある日常を描いていると思ったら、すこしずつ位相がずれていく、そういう恐怖をそなえた作品というのは、自分の日常にすらぬるりと入り込む。現実と接続し侵蝕してくるたぐいのたちの悪さがある。実家に帰省する道すがらでこれを読んでいて、駅まで迎えに来た父の車に乗ったとき、ほんとうは隣で運転しているのは父じゃないかもしれないという考えがよぎって、一瞬心臓がひゅっと縮んだ。


■漫画

ヒプノシスマイクコミカライズ

-Before The Battle-The Dirty Dawg
-Division Rap Battle- Side F.P & M
-Division Rap Battle- Side B.B & M.T.C
-Division Rap Battle- Side D.H & B.A.T
-Division Rap Battle- Side B.B & M.T.C +
-Division Rap Battle- Side F.P & M +

□呪術廻戦16・17巻
□違国日記4・5巻
□イルミナシオン
ヲタクに恋は難しい1・2巻
□ブルーピリオド1巻

アニメを見ていて、どうにも展開が早く感じられて、思い切って全巻購入した。1巻を読んでみて、ああこれは漫画でなければいけなかった作品だ、と思った。どうしてもアニメだと八虎の独白が削られてしまうからだ。ただ、言葉のひとつひとつにずしりと質量があるぶん、なかなか読みすすめる覚悟が決められず、続きが読めていない。

最遊記1~3巻

「情操教育は最遊記」という友人に、どうしても読んでほしい、と貸してもらったもの。このひとたちの好きな作品ならばぜったいに間違いない、という絶対的信頼を寄せる友人ふたりが口を揃えて「たましいに刻まれている」というのが峰倉かずや作品だが、私はこれが初対面。読んでみて納得した。中学のときに出会っていたかった!という思いと、中学のときに出会っていなくてよかった…という思いの両方がある。もっと鋭かった若い頃に、この劇物に曝されていたらどうなっていたのだろう、という恐ろしさ。友人に借りたよ、というのを元恋人に話したら「どうだった?」と感想を求められたので、「性癖ぶっ刺さり大図鑑」「ヤバ台詞大全」と二言返したら、「まあそうなるよね」と言われた。3巻までを読んだだけでも、好きな場面と台詞は枚挙にいとまがない。友人たちに好きそうと言われたのは三蔵と悟浄で、私のことをよくわかっているなあと思った。

どうか忘れないで下さい 種族の違いに隔てなどないことを

そんなに『神』に近づきたかったら死んじまえ

□ハヤカワノジコ『夜空のすみっこで、』

好きな声優が紹介していて、たぶんこれは私も好きだろうな、という気がしたので、DMMのポイント還元セールのときに購入した。嗅覚ははずれていなかった。こういう淡い空気感の作品って好きだ。

□穂積『僕のジョバンニ』 1~3巻

これも好きな声優が紹介していたもの。

■ドラマ

のだめカンタービレ

ゲーム『魔法使いの約束』のキャラクターたち21人の概念クラシック曲を選んで以来、そのプレイリストをときどき聴き返しているのだが、ベートーヴェンの第7を聴いていたら、ふと観てみたくなった。ちょうど作品の人気が出てきた頃に中学に入学して、校則でなんらかの部活に所属せよとさだめられていたので、たまたまこの作品に心酔していた同級生に誘われて見学に行ったのが管弦楽の同好会だった。そういうわけで、ピアノを習ったこともなかった私が、音楽をやることになった。おおげさでなく、私の人生を変えた作品である。今見ると顔をしかめたくなるような場面が多々あることは看過できないけれど、端的に、もー、めっちゃくちゃおもしれー!上野樹里の演技にも瞠目するものがあるけれど、なにより玉木宏の演技には息を奪われっぱなしだった。とくにSオケやR☆Sオケの公演で、指揮をしながら泣いているシーンはとてもよかった。目薬をつかわずに自発的に泣いている、とかそういう技巧の話ではない。泣くために感情をたかぶらせて演技をした結果としての涙ではなく、千秋の涙そのものなのだ。心の底から音楽に心をふるわせて泣いているのだ、と思った。つきなみだけど、音楽っていいなあ、と思わずにいられなかったし、楽器をまたやりたいな、とひさしぶりに思った。嬉しかったのは、作中の楽曲にわかるものが増えていたこと。部活で演奏したブラームスドヴォルザークはもちろん、それ以外の曲も聴き馴染みのあるものが多くて、観ていてすごく楽しかった。高校ではビッグバンドジャズに転向して、そちらのほうが演奏者としては真剣に取り組んでいたけれど、こうして鑑賞者の立場で考えてみると、実はクラシックのほうが好きなのかもしれない、ということにも気付いた。

■アニメ

□ブルーピリオド
□さんかく窓の外側は夜

アニメーションとして、というか動く絵としての質はそこまで高くない、と思う。もっとも、言葉のやりとりに重心のある作品だから、映像の絵面だけでは、そもそもあまり映えないというのが大きい。この世のものならざる者たちも、妙にかわいげがあっていまひとつ原作の良さを出し切れていないと言うか、せっかく動くのだから、もっと思いきりおどろおどろしい方向に踏み切ってほしかった。もっと怖くできたように思う。原作はもっと読んでいるときに怖かった印象があるだけに、物足りなさがあった。せめて表情の細かい機微をもっと表現してくれていれば印象も違うのだろうけれど、そういう感じでもない。そのぶん、声優の演技が重要になってくる作品だ。音で聴きたくて観ている、というのが強い。

私は原作の系多くんが好きだったから、それを斉藤壮馬さんが演じてくれることが嬉しかったいっぽうで、好きなキャラクターを好きな人が演じるというのは、やっぱりノイズになるんだなあともどかしさをおぼえた。キャラクターの人格と中の人の人格はけっして同一視できるものではないからだ。私が壮馬さんを好きであればあるほど、系多くんを演じる壮馬さんが意識に入り込んでしまう。でも、壮馬さんはこの台詞をこういうふうに演じてほしいな、と思う演じ方をしてくれるので、キャラクターの解釈がたぶん大きくずれていなくて、そのことが嬉しかったりもする。難しい。たぶん壮馬さんは自分(というか、声優という存在)がキャラクターにとってのノイズになりうることをわかっている人なんじゃないかな、というのは、彼のラジオを聴いていたりすると思う。受け取り手としてそのあたりにどう折り合いをつければいいのかについては、きっとこれからもしばらく悩むんだろう。

「差し伸べた手が届かなくても、それはきみのせいじゃない」

「何かあったらただで話きいてやるよ」

「なんで」

「きみがまだこどもで、俺が大人だから。君を守る大人がいなかったのはけっしてふつうじゃないし、きみはもっと嘆いていい」

ワールドトリガー 3期

8話のちかの独白が圧巻だった。以前も同じことを感じた気がするけど、模擬戦なのにこんなにおもしろいのはすごい。

□吸血鬼すぐ死ぬ

悪友が制作にかかわっている作品。軽快な笑いをもたらしてくれるので、疲れたときに見るとちょうどいい。

PSYCHO-PASS 1~3期

ある日、母から「PSYCHO-PASSって知ってる?」と脈絡のない連絡がきた。聞けば、久しぶりに食事をした学生時代の友人がアニメ好きなのだが、周りに話せる人がいないのだという。今度紹介するから話に付き合ってあげて、などと言われたので、まあそのうち見ようと思っていた作品でもあったし、ということでとりあえず見はじめた。で、真っ逆さまに落ちた。睡眠を削って、平日3日間で1期2クール24話を走破する、みたいなことを久しぶりにやった。もう、悔しくて悔しくてかなわない。こういうの、好きだろう?とちらつかされている感じ。目の前に甘い菓子をぶらさげられて、無様だとわかっているのに、ふらふらとついていってしまうのをやめられない、そういう感じ。ああそうだよ、好きだよ、こういうの。自分の無知をひたすら教えられ続けるのは苦しくて、最高に気持ちいい。恍惚、というやつ。ニーチェデカルトマックス・ウェーバーミシェル・フーコー。そういう人らの著作の引用が、物語に違和感なく組み込まれている。聞いたことのないはずがない名前だけど、じゃあそのどれだけをわかっているのかっていったら、断片的にしかわからない。そのことが猛烈に悔しい。世界には私よりもずっとずっと頭が良くてすごい人間がたくさんいて、そういう人間が創り出す途方もない物語に圧倒されるとき、自分の小ささを何よりも強く感じる。そういう作品が好き。大自然を前にすると自分の存在がちっぽけだと感じる、とかよくいうけど、私にとっては物語がそれ。神じゃなくて人間が創ってることが明らかなぶん、たちがわるいかもしれない。

人がたくさん死ぬ作品はどうしたって惹かれてしまうし、誰よりもお互いを理解するがゆえに、殺し合うことでしか相手と向き合えない似た者どうし、というのも好き。そういえば、西尾維新零崎人識の人間関係』の零崎人識と匂宮出夢の関係がむかし大好きだったことを思い出した。変わっていない。社会のあり方とか人間のあり方を懐疑する内容になっていることも、緻密な世界観設計も、どれをとってもど真ん中に好きで、撃ちぬかれるってこういうことを言う。ディストピア作品がおもしろいのって、現代社会にもある要素を肥大化させて極端に強調しただけで、今の社会に生きる私たちにも直感的にわかるようになっているからだろう。この社会に生きる人間の創るものなので、当然といえば当然だけど。いかに荒唐無稽ではなく、リアルにできるかって、今の社会をきちんと観ているからこそできるものだなと思う。このシビュラシステムによる監視社会と強制されたメンタルヘルスって、本人と社会双方にとってその個人の価値を最大化させるためのもので、究極の多様性と生産性至上主義をつきつめたらあそこに行き着くのかも、と思うのはわかる気がする。

最初の数話を見て抱いていた常守朱に対するネガティブな印象が、終盤ではすっかり塗り替えられていて、その鮮やかさに舌を巻いた。1期21話で六合塚弥生が「新しい監視官がやってきたとき、最初は甘そうなお嬢ちゃんだと思いました。こんな仕事は到底務まらない、って。でも、あのときの印象は完全に間違っていた。今ならそう断言できる。あなたになら命をあずけられます」と言っていたけれど、視聴者である私も彼女たちと同じ感覚を追体験していたのだ、とちょっと感動してしまった。なお、鑑賞初日の常守朱の印象は「優等生感がものすごく鼻につく、ここからどう闇落ちするのかなって後ろ暗い期待をおぼえてしまう」というもの。2期6話で、過酷な状況でも色相の濁らない常守を見た執行官の東金が、「この状況で、なんて美しい。だからこそ、黒く染めてやりたい」って言うシーンがあるのだけど、思わず「わかる~」と声に出してしまった。そういう自分の中の暗い欲望と向き合わざるを得ないのも、この作品のキツいところでありおもしろいところでもある。

あと、六合塚弥生は1期12話の滝崎リナとの関係の描かれ方でレズビアンかなと思っていたら、案の定終盤で唐之杜志恩と関係を持っていることが明確に描かれていて嬉しかった。弥生と志恩はきわめて直接的に描かれているほうだけど、そういう露骨すぎない性愛の匂わせ方、というか性愛と呼ぶには似つかわしくないくらいの他者への淡い執着の描き方が、全体をとおしてかなり好みな作品。2期の宜野座と青柳が飲み交わす場面とか、常守が煙草を吸うようになっていることだとか、そういう解釈でどうとでもとれるような細い糸が散りばめられている感じ。

1期1話で「あ、このひとのことを好きになるんだろうな」って直感的に思ったひとのことやっぱり好きで、なのにあっさり1期でいなくなってしまって、いまだに彼に対する感情をもてあましている。事前にネタバレを踏んでしまったから、そういう結末になることは承知していて、いざ死ぬシーンに差し掛かったときは冷静だったものの、そのあとのエピソードでエンドロールに彼の名前がないことに何度も落ち込んだ。縢秀星、好きだよ……。

Free! Take your marks

ちょっと落ち込んでいたときに元気になりたくて幾度目かの視聴。いつだって帰ってきたい作品。4月の劇場版後編公開のまえにまたひととおり駆け抜けたい。

■舞台・ライブ

オペラ座の怪人 ロンドン25周年

カルロッタの人がよかった。ラミン・カリムルーは文句なしに格好いい。

□キャッツ 1998年公演
劇団四季 オペラ座の怪人(10/16、10/23、12/12、12/19)

清水大星のファントムがとにかく好みで、私の楽日であった12/19は、第1幕から枯れるほど泣いていた。The Music of Nightで泣く情緒になることはこれまでもあったけれど、この日決壊したのはAll I Ask of Youのほうだった。ラウルのクリスティーヌにたいするおおらかさ、優しさがあまりにまぶしくて、彼がそういう人間であれたのはひとえに彼が恵まれた特権男性だったからだというのがあまりに残酷に思えたこと、ふたりの愛に満ちたデュエットを、ファントムはいったいどんな気持ちで見ているのだろう、と思ったら胸がはりさけそうでたまらなかった。

劇団四季 アラジン(10/23、10/30)

半年強で10回以上観た結果、さすがにすこし熱が落ち着いた感じがある。岡本瑞恵さんのジャスミンが観られたのは嬉しかった。でも、雛鳥よろしく初めて見たキャストを親だと思ってしまうところがあるので、平田愛咲さんのジャスミンが恋しくなった。

アンドリュー・ロイド・ウェバーコンサート アンマスクド(12/11)

悪友と早めに集合して開演前に酒を飲み、終演後にも酒を飲み、終電に間に合う時刻に解散して各自帰宅してオンラインで飲み直した。公演そのものももちろん楽しいけれど、こういうふうに、その前後の時間もふくめて楽しさを共有できる友人がいるのだ、ということが、公演を楽しむ気持ちを底上げしてくれているような気もする。学生時代も親交はあったけれど、こうして定期的に飲み交わすようになったのは最近のことだ。それでも、愛するものと重んじるものとゆるせないものが似かよう間柄というのは、一緒にいてとても気楽だし、楽しい。公演は、ザ・贅沢、という感じだった。ALWがいかに稀代の作曲家であるか、というのをこれでもかと思い知らされた二時間だった。本人によるウィットに富んだ曲紹介もおもしろかった。そして何より、四季の俳優のレベルの高さ!歌がうますぎて何がなんだかわからなかった。飯田兄弟のファントムとラウルには圧倒されるしかなかったし、白瀬さんのユダも最高だったし、とにかく全員余すところなく素晴らしかった。歌が中心のコンサートでありながら、細かく仕込まれた照明や衣装の演出もすばらしくて、劇団四季を好きになってほんとうに良かった。ハイカロリーなあまりに消化しきれなかったのが心残りだったので、年明けの東京千秋楽のチケットもとってしまった。

□みきくらのかい 第4回朗読劇『お伽の棺』(12/19)

元恋人と一日遊ぶ約束をしていたので行くつもりはなかったのだが、未練がましくサイトを見ていたら、当日券の販売があることを知った。しかも、観劇と夜の予定のあいだにちょうどよく時間が空いている。けっきょく、元恋人とは観劇後に一旦別れて、夜に再度落ち合うことにしてもらった。まさか年内に斉藤壮馬さんの現場に参戦することになるとは思っていなかったので、心の準備ができていなくてどうしようかと思ったのだけど、無理を言って行くことにして、ほんとうにほんとうによかった。うまれて初めての朗読劇がこれで良かったと心の底からうれしく思う。

私はギターやピアノを弾いているひとの手元を眺めるのがとても好きで、というのも、縦横無尽に動きまわる指先から音が紡ぎ出されていくその刹那が神秘的に思えるからだ。朗読というのは、目の前の人間から物語が紡ぎ出されてゆく、まさにその瞬間を目撃することなんだ、というのを知った。物語は文字で読むものだと思っていたけれど、その固定概念を足元から崩されたような感じで、すごく気持ち良かった。音も雪に吸収されてしんと静かな夜の景色がまざまざと目に浮かぶのだ。二人芝居で100分って、体力的にもそうとうしんどいものだと思うのだけど、いのちを削るように叫ぶ壮馬さんにも、1人3役のそれぞれが憑依してみえるほどに鬼気迫る三木さんにも圧倒されてしまって、ただただ呼吸を忘れる100分だった。そんなに時間が経っていた気がしない。

お話の最後、三木さんよりも先に台詞が終わる壮馬さんが、台本を閉じて、白い裏表紙を布になぞらえて、その布を抱きしめる仕草をしたところには、いっそ荘厳さすら感じた。朗読というのは声の演技でありながら、けっして声だけで完結しないものなのだ、というのもおもしろいと思った。

終演後の舞台挨拶で、壮馬さんが「皆さんが呼吸や身じろぎすらも抑えて聴き入ってくださってるのが伝わってきた」というようなコメントをしていたのが嬉しかった。というのも、まさに聴いているときの私が、自分の存在をできるだけ殺し、物語に没頭しようと息を詰めていたからだ。そういうこちらの姿勢が、舞台のうえにもきちんと伝わってるんだというのが嬉しくて、つきなみだけれど、現場っていいものだなあと思った。三木さんが「対面でお芝居ができない日々が続いて、相手の台詞を聴いて心が動かされて、それを自分の台詞に感情を込めて相手に返して、みたいな機会も減っている。壮馬くんをふくめ、若手声優は自分でも気付いていないような扉がまだあるはずだし、自分の役目はそういう後輩の扉を開く助けをすることだと思っている」みたいな話をしていたのにも感じ入ってしまった。声優という仕事のことを私はまだぜんぜんわからないけれど、たしかに三木さんの演技は素人目にも圧巻で、いっぽう壮馬さんに荒削りな部分があるところもなんとなく感じ取った。この先私が壮馬さんをどこまで好きでいるかはわからないけれど、彼は年を重ねてゆけばゆくほど魅力を増してゆくひとだと思うし、だからこの日の壮馬さんを目撃できたこと、この舞台に立ち会えたことは、すごいことだったんだろうな、と慈しむ気持ちがある。というか、三木さんがあまりにすごくて、私のなかの新たな扉(朗読のおもしろさ)も開けられてしまったような気がする。

新国立劇場バレエ団 くるみ割り人形

演出がとても良かった!生演奏で大好きなチャイコフスキーの楽曲を堪能できただけでも幸せだったけれど、バレエ音楽というのは、なるほど舞台あってこそその真価を発揮するものなのだ、というのがよくわかってとても楽しかった。音の持つ印象が、振り付けとリンクしていく気持ちよさ。クリスマスにくるみ割り人形を観たい、と長年思いつつ実行できていなかったので、夢をひとつ叶えることができてとても幸せだった。

□NIGHTMARE TOUR 2021 Sweet Sinners(12/26)

五人をこの目で見たのは高校一年の頃、ジャイアニズム死のPV撮影で、それが最初で最後。咲人さんのソロプロジェクトであるJAKIGAN MEISTERのライブには一度行ったけれど、それももう丸三年ほど経つ。十年以上ぶり、二度目のナイトメアだ。三階席の最前列で、V系の現場慣れしていない私にはちょうどいい距離感だったと思う一方、やはりちょっと遠くて物足りなさも残った。ライブ自体は配信で何度か観ていて、メンバーの表情が間近で抜かれるような見え方になじみがあったからというのもあるし、どうしてもステージの彼らとの距離があいてしまうぶん、階下の熱が伝わってくるまでにすこし冷めてしまうから。これは、自分が振りやヘドバンに慣れていないせいで、自分から前のめりにその熱にからめとられようとすることができなかったせいもある。いっそ実感などさっぱりなく、夢見心地になったまま終わってしまった。あとから配信を見返して、自分がその場にいたことが現実だったことを確認した。それでも行けてよかったと思ったのは、配信で映らない場面がたくさんあること。Mr. Trash Musicの「牙を抜かれた子猫ちゃん」という歌詞のときに、咲人さんが猫のポーズをしていたのが見えたりだとか(配信ではYOMIくんが抜かれていた)、メンバーが思った以上に会場のことをよく見ているんだというのがわかったりだとか。もちろんそんなはずはないのだけど、目が合った、と感じる瞬間がけっこう何度もあった。来年は七年ぶりのアルバムリリースだという。あわせてツアーも発表された。せっかくこうしてまた出会い直したのだから、もっと好きになってみたい。

■映画

□his

静謐さがすごく好きな映画だった。

□スウィング・キッズ

シング・シング・シングの使い方がずるすぎる作品。ギョンスってすごい人なんだな。

ムーラン・ルージュ

ニコール・キッドマンが魅力的。

PSYCHO-PASS 劇場版
PSYCHO-PASS Sinners of System 1~3

ギノさんの髪の毛が伸びていて、泡を吹いて倒れるかと思った。それはずるいじゃんか。かっこいいじゃんか!物語の舞台が日本国外になって、さらにつっこんでいのちの軽さに焦点をあてた作品になったな、と感じた。

戦争をエンターテイメントにすること、については、いつも考え込んでしまう。これは100年後の世界の話だけれど、軍部の政権掌握と民主化運動のゲリラ活動なんて、今の世界にもある話で、これをエンタメとして楽しめる自分の特権性みたいなことをどうしても考えてしまって後ろめたくなる。私にとってはフィクションにすぎなくとも、あんなふうに死が真隣にある世界は、誰かにとっては遠くない過去または現在の現実なのだ、ということを思う。BLACK LAGOONを観たときにも、伊藤計劃の『虐殺器官』や、IDOLiSH7の劇中劇である『ダンスマカブル』にしても思ったことだけれど、こういう物語をどうしようもなく欲してしまうときというのは、時折ある。人のいのちが軽んじられ蹂躙される世界の物語が、死が遠くなった社会の人間には必要だからなのだろう。人類の歴史の中で個人が尊重されてきた時間ってほんとうにすくない(それは個人主義が新興の概念だからではなく、集団の衰退を招くゆえに淘汰されてきたものだからにすぎないのではないか、というのは以前も書いた)。いのちは、もっとずっと軽いものだった。私は個人主義の人で、個々のいのちが、人権が、尊厳が、尊重されてしかるべきだと強く信じているけれど、それでもときどき、それでいいんだっけ?とわからなくなる。いのちって、こうもあたりまえに重要で尊重されるべきものとしてあつかうに値するものなんだっけ。人道的、とか、倫理的、とか、その価値基準が、正しくないとは思わないけれど、息苦しく感じることがあるのは事実だ。いのちは大事にしなくてはなりません、生きていることはすばらしい、そういうイデオロギーのもたらす息苦しさ。今多くの国々が直面しているような少子化高齢化社会は、社会制度の拡充によって、ある程度進行を鈍化させることはできるだろうけれど、世界が個人の価値を重んじる方向に進んでいくかぎり、その傾きがくつがえることはない気がする。個々のいのちが重く扱われるようになればなるほど、そこにともなう責任が重くなればなるほど、人間は人間を再生産できなくなる。私がいい例だ。子育てなんてそんな責任のある大事業、こんないい加減な人間にできるはずがない。だから産まない。そんなふうに、いのちの価値の重みにがんじがらめになった人間のために、こうしていのちが粗末にあつかわれる残虐な物語は存在するんじゃないか。人間はそんなにたいそうな生き物じゃない、というのを忘れないでいられるように。

 

とくに12月にかけては仕事が忙しかったなかで、わりあい楽しめた感触があって、こんな調子で来年も貪欲に楽しみ尽くしていきたい。ちょうど紅白が終わったところだ。なんとか年内に書けて安堵、推敲は後ほど!