2021/1/21

午前六時半に起きる。荷物をまとめて、ホテルをチェックアウトして、今日も駅前のカフェで三十分ほど本を読む。レイ・ブラッドベリの『華氏451度』だ。すこし前に『火星年代記』を読んでその詩趣に惚れ込んで以来、ずっと読みたくて楽しみにしていたので、ページを繰りながらずっとわくわくしていた。

今のクライアントとの付き合いは今日でひと区切りだ。関与が薄くなることを伝えると、相手先の部長や課長が残念そうなそぶりを見せてくれたのがうれしかった。それなりに買われていた、ということらしい。今後も一緒にお仕事したいので、ぜひ追加契約をいただければ幸いです。そう売り込みながら、自分自身を商品としてあつかうことにためらいがなくなっている、と思った。優れた商品として評価されることに喜びをおぼえる自分がこわい。

男性中心的な資本主義社会のなかでしたたかに生きのびることを肯定的に思う自分と、それを唾棄すべきものだと蔑む自分の二律背反に、日々引き裂かれている。望むと望まざるとにかかわらず、資本主義社会に生を受けた人間が盤上から逃走しようとすると、それは社会から敗北として扱われる。困ったことに、私は負けず嫌いだから、参加を強制された試合であっても、戦おうとしてしまう。戦い続けることが、こうありたいと願う自分に背くことだとわかっていたところで、そういう社会を憎んでいると口にしてみたところで、私はみずから今いる場所を勝ちとった、という自負を捨てられない。滑稽だな、と俯瞰して見ている自分が言う。でも、成果主義と生産性至上主義に曝され続けてきて、それらを深く内面化してしまうことを、どうやったら避けられたというのだろう。私はたしかに優位なポジションでゲームに投入されたほうで、そうでなければ今手にしていなかっただろうものがたくさんある。でも、だからといってそれは私が努力してこなかったことを意味しない。努力だけで掴んだものではないけれど、運だけで掴んだものでもない。そのことを誇りに思っていて、でもそれ以上に、誇らしく思うことを恥じてもいる。自分が勝っている側にいると思うことは、私の目に他者が負けているように映るということであり、自分が勝っていることに満足してしまうということは、負けているように見える他者のことを侮る視点が私の中にあるということだ。優秀でないひと、に対しておぼえる攻撃的な感覚に、どんどん慣れてゆく自分がたしかにいる。負けたくないと思っているかぎり、私は資本主義を、ひいてはそれがもたらす不平等を、許容していることになる。自分の市場価値が上がれば上がるほど、自分のことを愛せなくなっていく。幾度も繰り返してきた思考をなぞるばかりで、いっこうに進歩が見られない。

もっといろいろ日記に書こうと思っていたことがあった気がするのに、指のあいだをすりぬけていってしまった。帰宅したのはちょうど壮馬さんのラジオがはじまる時間で、長距離移動でつかれた体をソファに預けながら聴いていたら、声が好きというばっかりで、ぜんぜん内容が頭に入ってこなかった。