散髪記

三年近く伸ばしていた髪を40cmほどばっさりと切った。

長い髪は一般に女性であることの表現というあつかいをされる。私は自分を女性であると認識しているが、女とはこういうものである、こういう見た目をしているものは女である、という固定観念が、望もうと望むまいと、自分にも適用される暴力性を受け入れがたいと常々感じてきた。長い髪を持つことで他者から女であると判断されることが嫌だったから、長い髪でいることが嫌だったのだ。ただ、そういう他者からの視線を切り離したとき、長い髪の自分も愛せるようになりつつあった。だから、いざとなるとすこしばかり未練もあった。

もちろん、髪を短くしたところで、それ以外の部分、たとえば装いやふるまいや体つきから他者が私を女であると判断することはやめないだろう。いわゆるフェミニンな装いも好んでするし、化粧もアクセサリーも好きだ(ただ、最近はこれらも女性の専売特許ではなくなりつつある。すごくうれしいことだと思う)。それでも、髪型を男性に「寄せる」ことで、女性であるとジャッジされることからすこしでも自由になりたかったのだと思う。けれど、私は男性と判断されたいがために男性表現に近づけているのではなく、女性と判断されたくないがためにそうしているわけで、この差異はけして軽視できないように思う。

男性中心社会で弱者となる「女性」として扱われることから逃れるために、女性の有徴性(たとえば長い髪)を打ち消す方向に行くのは、一次元的な男女の概念がひろく膾炙した現在の社会ではほとんど唯一の手段であるようにも思えるし、脱コルセット運動が一定の支持を受けているのもそれが理由だろう。しかし、女性性の否定のために女性の記号を脱ぐことは、私たちがひとしく男と女という一次元的な構造を前提とした社会に組み込まれているからこそ、男性に近づこうとすることでしかありえないし、それはひいては男性を標準とあつかうことへの同調になるのではないか、という違和感もある。ほんとうにそれでいいのだろうか。長い髪を持ったままで、女だと判断されることから逃れる道を、私は探したいのではないか。女だと思われることではなく、男と女という一次元の評価軸、その構造をこそ、拒みたいのではなかったか。

ここで私が懐疑的に見ているのは、人間を男と女の二項対立で見ようとするラディカル・フェミニズムだけでなく、性表現、性自認、性的指向をふくむクィアネスの考え方そのものが、けっきょくは「男」と「女」のあいだのグラデーションのなかで規定されがちなことについてである。ジェンダーの解体とは、グラデーションの存在を認めることではなく、男と女を対極に置こうとするその評価軸それ自体であるべきなのに。

とはいえ、じゃあどうすればいいんだ、と問われてもわからない。わかるのは、構造の解体は、一朝一夕で実現できるようなものではないということ。解体を目指すことと、今ある構造を無視することはぜんぜん違うということ。そして重要なことだが、この構造は、生物学的な性によって一義的に決まるものではなく、もっと曖昧で掴みどころのないものであるということ(XX染色体を持つことはジェンダー構造における「女性」であることの必要条件ではない。私はトランスジェンダー差別に反対する)。髪の長い私も、髪の短い私も、私が女性であることとは無関係に愛していたいと思うこと。その方法を模索しつづけていたい、と思う。

切った髪は、寄付をする。半分はそれを目的に伸ばしていた。というよりも、髪を伸ばすことを自分に強いるために慈善行為という大義名分がほしかったのだと思う。大義名分を必要としていた、自分に「強いていた」という意識があるほどに、長い髪でいることが苦痛だったのは、私が長い髪を持ち続けることで女性としてあつかわれることを受け入れているように思われたくなかったからだ。でも、今回切って、そこでおぼえた未練を認識してみてよくわかった。私は私が伸ばしたいかどうかだけで髪を伸ばすか切るかの判断をすべきだったし、そのためにドネーションという形を利用して、善意ゆえの行動であるかのようにふるまうべきではなかった。

くわえて、髪を寄付することが善であると信じて疑わなかった浅はかさも省みている。善と偽善の区別は無意味だ。すべてのコミュニケーションがそうであるように、行為をおこなう側の意図や感情はさして重要ではなく、受け取る側がどう感じるかのほうが大事だからだ。だから、なんらかの事情でウィッグを必要とする人がいるかぎり、ヘアドネーションという行為には意義があるし、この先私がまた伸ばして、また切りたくなったときに、長さが足りるならばまた寄付するかもしれない。それでも、ヘアドネーションをよいこととして扱うことは、人は髪があるのが正しいありかたであるという規範を強化することにほかならないということ、その欺瞞をきちんと自覚したいと思うし、次に伸ばして切るときまでに、寄付をする必要のない社会になっていればよいと思う。これはヘアドネーションにかぎらずあらゆる寄付について言えることだが、けっきょく対症療法にすぎない。寄付が必要とされる不均衡の状態を正すことのほうにこそ意識を向けていられる人間でありたい。