蜘蛛の巣は風になびく

 覚醒しきらないままカーテンを開けたら濃い青が目に飛び込んできた。しばらく聴いていなかった、好きな声優の曲がふと聴きたくなって、流しながら意識を引き上げているうちに、そういえば好きになってちょうど一年ほどだということに気づく。彼の音楽が秋と分かちがたく結びついているから、秋を感じると無自覚のうちに聴きたくなるというような機序がはたらいているのかもしれない。

 身軽になりたい、とこのごろよく思う。しかし自分がいったい何に絡め取られているのかもわからない。ただずっと息がうまくできなくて喘いでいるような気がする。
 先日読んだ沢木耕太郎の随筆のなかに、これといって趣味とよべるものがないことについて話しているものがあった。趣味をもつことの効能について理解を示すそぶりを見せつつも、しがらみに足をとられずにいられる自分の在り方に満足していることが窺えるものだった。自身の身軽さを鼻にかけたような印象に苛立ちをおぼえたが、同時に羨ましくてたまらなくなった。
 私は好きなものが多い。そのことに誇らしさをおぼえることもある。ただ、時折それらが重たく感じられるのも事実だ。
 推し活、という言葉が市民権を得てから久しい。毎年新たなアイドルがデビューし、漫画が刊行され、映画やドラマや音楽がつくられ、ソシャゲがリリースされる。一般人と有名人の境界線は曖昧になった。誰もが誰かを推している。
 多様な「好き」の形が肯定的にとらえられる流れを好ましく思ういっぽうで、これもまた、恋愛至上主義の変形したものではないかという気もする。愛する対象を持つことが標準とされる世の中で、その対象が婚姻相手となりうる現実の異性に限定されなくなったにすぎないのではと。
 ともあれ、趣味も飽食の時代である。名作ともてはやされるものが次々に広まり、あっというまに次なる名作に置き換えられて忘れられてゆく。今度こそ自分の心をつかんで離さぬ唯一無二の何かに出会えたと思っても、すぐに別の作品に出会えてしまう。
 何かを好きでいることがまだ新鮮に感じられていたときは、新たな刺激を味わうことに夢中になっていたが、このところはどちらかというと持て余している。どうせすべては永遠ではないから。好きだと思うことすら、自らの感覚を偽っているのではないかと疑心暗鬼になる始末だ。

 私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であった。私は常にあこがれている人間だ。
 私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だということを知ってしまったからだった。
 ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはいられなくなる。その遊びは、私にとっては、常に陳腐で、退屈だった。満足もなく、後悔もなかった。

坂口安吾『私は海をだきしめていたい』

 満たされないとわかっていて、それでも満たされようと新しいものに手を伸ばし続ける自分は、みじめで滑稽である。死ぬまでこれを続けなくてはならないのかと思うとうんざりする。消化試合である。労働の道具に成り下がりたくないと思うようにしてきたけれど、この世界にとどまらなくてはならないという外的な動機づけを与えてくれることを思うと、とっくに労働がないと生きていけなくなっているような気がする。しかし、労働とのかかわり方にしたって、この先も同じように受動的なままでいるわけにもいかない。それもまたひとつの対症療法にすぎないからだ。
 すこし前のこと、勤め先の社長と直接会話をする機会があった。現場からの叩き上げで抜擢された人だが、就任して最初の数年は、自分の無知を思い知らされてばかりだったと話していた。それでも、わからないということを自覚して、ひとつずつ調べたり勉強したりしていくうちに、だんだんと知らないことがつながっていった。それが気持ちよくて、楽しくて仕方がないのだそうだ。
 接している世界はくらべものにならないが、その感覚は私にもおぼえがある。自分のできることが増えている、過去の自分には理解できなかったものが今はわかるようになっている。そういうおもしろさがなければ、そもそも丸五年も会社員を続けられなかっただろう。
 仕事だけでなく、好きなことについてもそうだ。ソシャゲやミュージカルを起点に古典を読んでみたり、哲学に手を出してみたりして、すこしずつ理解が深まっていく。点と点が結ばれて、知識が私の中で意味のあるものになる。生きるというのはそうやって、蜘蛛の巣の網の目を編んでいくいとなみのことだ、と最近は考えている。
 社長は、政治や社会のことに目を向けるようになって、新聞がおもしろくなったのだという。朝刊を読みたくて朝が待ち遠しいと思う日が来るなんて思わなかったよ、と笑っていた。文字をおぼえたばかりで絵本を読みたがる子どものようだった。こういう人の率いる場所にいられることは幸いだと思う。こういう人が上にいるから、出る杭が打たれることも、足をひっぱられることもなく、若手の私が言いたいことを言える環境があたりまえにある。良い会社だと思う。
 また別のときは、会社の役員に一日ついてまわって、その仕事ぶりを見学する機会があった。今後数年の事業の方向性を決めるような、お偉方ばかりの会議にも出席させてもらって、経営層がどんな人たちで、何を考えて仕事をしているのかというのを垣間見ることができて、ものすごくおもしろかった。
 朝から晩まであらゆる会議に同席したあと、その役員と個人的に会話する時間があったので、経営の舵取りをして、会社の未来を描く位置に就く人と、現場で「現在の」仕事をさばく位置にとどまる人とを分ける要因はなんだと思うかと尋ねてみた。彼女は、けっきょくは新しいことに飛びつきたくなる性分か、同じことを着実に積み重ねる職人気質かというところだと思う、と言った。その答えは、私がかねてから予想していたものだったのでとくに目新しくは感じなかったが、それを聞いて社長の知識の点と点が結びついてゆくおもしろさの話を思い出したので、それを役員にも話してみた。そこで返ってきた言葉が、とても印象的だった。
 「あの人、その話をよくするんだけどさ、忘れちゃいけないのは、彼が仕事にずっと邁進してきて、仕事っていう太い幹を持っているというところだと思うんだよね。幹ばかり太くするか、蜘蛛の巣を広げることばかりがんばって幹はひょろひょろのままか、そういうどっちかだけの人が多いと思うけど」
 仕事についての文脈で出た言葉だったとはいえ、私が生きるうえで何を軸足にしていくかというところがはっきりしないから、こんなにも生きてゆくことが心もとなく思われるのだというのを正面から突きつけられて言葉を失った。
 エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読んでからというもの、自立した自由な個人でいることは、自分を四方八方から紐で吊って、均一の力で引っ張り続けることによって中央で宙に浮かせておくようなことだと解釈するようになった。体操の吊り輪みたいな状態である。どれかひとつでも紐を引く強さが異なれば、均衡は崩れてしまう。自由でいるというのはだから、とても神経をつかう状態なのである。
 しかしそこに地面からしっかりと根ざす幹があって、宙に浮く私がそこに体重をしっかりと預けられれば、ほかの糸が多少緩んだりしてもだいじょうぶなのだ。ならば、私の幹となるものは何だろうか。この先、何を拠りどころに生きてゆけばよいのだろうか。

 そして私は、私自身の本当の喜びは何だろうかということに就て、ふと、思いつくようになった。私の本当の喜びは、あるときは鳥となって空をとび、あるときは魚となって沼の水底をくぐり、あるときは獣となって野を走ることではないだろうか。
 私の本当の喜びは恋をすることではない。肉慾にふけることではない。ただ、恋につかれ、恋にうみ、肉慾につかれて、肉慾をいむことが常に必要なだけだ。
 私は、肉慾自体が私の喜びではないことに気付いたことを、喜ぶべきか、悲しむべきか、信ずべきか、疑うべきか、迷った。
 鳥となって空をとび、魚となって水をくぐり、獣となって山を走りたいとは、どういう意味だろう? 私は又、ヘタクソな嘘をつきすぎているようで厭でもあったが、私はたぶん、私は孤独というものを、見つめ、狙っているのではないかと考えた。

坂口安吾『私は海を抱きしめていたい』

私の本当の喜びが、見つかるだろうか、いつか。