窓の膨張

なんとか逃げ切ったつもりでいたのに、ここに来てとうとう感染したらしい。一時40℃近くまで上がった熱はあっさりと引いた。今はただひたすら喉が痛くて、唾を飲みくだすことすらつらい。連れが差し入れてくれたトローチをむさぼっている。

高校の終わり頃にはじめてアカウントを作ってからというもの、自分がツイッターなしで生きられる人間だとは思ったことはない。何度もやめようとして失敗してきた。消したアカウントの数はもうおぼえていない。数十万という言葉の断片を大海に流し続けてきて、いつしかそれが呼吸に等しい行為になった。だから、そう簡単にやめられるとは思っていなかった。駄目で元々、そのくらいの軽い気持ちでアプリをアンインストールして、ブラウザに記憶させていたパスワードも削除した。そんなことをしたところで、パスワードは暗記しているのだから、たいした効果はない。どうせすぐにログインするに決まっている、そう思っていたのだが、なかなかどうして、一週間近く経ってもあまり戻りたいと思えない。

きっかけは、ヨガのインストラクターをやっている知人が断食をやっているというのを見て、なるほどこれは良いかもしれないと思ったことだった。物理的な断食ではなく情報の断食である。ひらたく言えばSNSデトックスというやつだが、とにかく情報の摂取量を減らしたかった。気持ちにゆとりがほしかった。

断食をすると味覚が鋭くなるのだと聞く。そういう効果をすこしばかり期待していたところもあるが、あまりそんな実感はない。ツイッターを断っただけで、魔法のように文章が書けるようになるわけでも、世界が美しく見えるようになるわけでもない。ひたすら、笑ってしまうくらい生活が静かだ。洪水にさらされ続けていたことがよくわかる。体調を崩していたこともあいまって、生活に他者の気配がまったくしない。時折連れや家族と文面で言葉を交わす以外は、私だけの世界だ。静かで、すこし怖くて、すごく穏やかだ。

ツイッターというものについて書くことにずっと抵抗があった。私にとってツイッターは窓だった。家の中の光景を外に見えるようにするための、そして外の景色を眺めるための、透明な薄いガラスでしかなかった。ツイッターというものについて話すということは、外の景色を見ずにそのガラスの表面をまじまじと見つめるようなもので、それがどうにも窓の目的にそぐわないように思えて居心地が悪かったのだ。だがいつからか、ガラスは膨張して厚みを増し、それ自体がひとつの世界へと成長した。さらに悪いことに、その境界線はぐちゃぐちゃに溶け合って、どこまでが内側で、どこからが外側なのかも曖昧になった。自分が実際より肥大化して感じられるようになり、相対的に社会は小さくなった。

その世界を、一時的にとはいえ、肥大化した部分の自分ごと断ち切ってみて思うのは、こんなにも社会は遠いものなのかということだった。ニュースも、今期のアニメの感想も、ソシャゲのメンテナンスの予定も、アイドルの動向も、漫画やドラマのおすすめ情報も、愛する人らの一日がどんなものだったのかも知ることができない(特に最後はものすごく大きくて、戻りたいとは思えないと言いながらアカウントを消さずにいるのはこのためだし、この一週間まるきりログインしていなかったわけでもなくて、フォロイーのホームに飛んで、見ていなかった分のつぶやきを遡るというのは幾度かやっている)。置き去りにされているような怖さがある。しかし、私はもうツイッターのなかった頃の生活を思い出せないから、これは想像の話にすぎないとはいえ、社会って本来、そういう遠さのあるものではなかっただろうか。自分の知らないところで世界が動いていくのは怖いけれど、でもすくなくとも、私の生活が、私の手の中に収まるという安心感がある。

誰かの悲しみに寄り添っていたい、声を奪われた誰かの代わりに怒っていたい。そうありたいと思い続けてきた。自分よりも声の大きい誰かを目にするたび、自分のがんばりが、誠意が、熱意が足りていないのだと悔やんだ。こうしてツイッターから離れることも、そういう逃走の一形態ではないかという後ろめたさがつきまとう。今や窓の中に育った世界にも差別は根を張って腐らせていく。その世界の存在ごと目をそらす行為は、正しいだろうか?

世界が静かだ。私にはこの静けさが喜ばしいものなのか判断がつかない。ただ、あの喧騒の中に戻る準備はまだできていないと感じる。