試着室にて

午前五時までInstagramでリール動画を見ているうちに寝落ちてしまったせいで、起きた時には午前十一時になっていた。掃除と洗濯をして、ボランティアへ行った。

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中学生に数学を教える。どうせこんなの勉強したって使わないのに、と言われて、答えに窮してしまった。先月には、点Pと点Qが動く問題に数年ぶりに邂逅して、旧知の相手に再会したような妙な感慨をおぼえたこともあったが、おとなになってみても、点が図形や立体の辺を動きまわるのは理不尽だという気がする。点Pの動機が見えないのが不気味なのかもしれない。これが将来役に立つと思えないのは仕方のないことだろう。

学生時代のアルバイトもふくめ、学校での勉強は実用的ではないという主旨の不満を口にする子どもを、少なくない数見てきた。自分もまた同じように感じ、それに対し明確な解答を与えてくれない教師に対して不信感を募らせていた子どもだったから、気持ちはよくわかる。どうしておとなはかつて子どもだったのに、子どもの疑問に答えられないのだろうと思っていた。今にしてみれば、たぶん、あなたのやっていることは無意味ではないよと言ってほしかっただけなのかもしれない。

今の私は「学校の勉強に何の意味があるのか」という問いに、私なりに答えることができる。それは一時は教員を志した根拠でもあるし、その道を諦めて以降も、こうしてボランティアという形で子どもの教育に関わり続ける理由でもある。だけどそれは、たぶん今の彼らに感覚的に理解することが難しいものだというのもわかる。勉強を楽しい(あるいはせめて、苦痛ではない)ものだと思えれば、勉強する理由をわざわざ求めなくてもすむだろうし、その手助けができると思っているからボランティアをやっているが、そこに辿りつけないでいる時に「今やっているこれに何の意味があるのだろう」という無力感を抱えさせたままにしたくない。「おとなになればわかるよ」というのも無責任な話だし、なるべく理解できるかたちで説明できないものかと思うが、なかなか難しい。今すぐ響かなくてもいいので、「まあ、それならとりあえずもうすこし勉強してみようかな」と思ってもらえることが第一だろうと思う。それにはけっきょく、私が一番楽しむことだと開き直った。中学生の勉強は、けっこうおもしろい。

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かつての親友と半年ぶりに食事をした。成績も人望も何もかも、ぜったいに敵わないと思わされ、劣等感を刺激され続けてきた相手だ。尊敬して、見上げて、執着して、畏れて、強烈に嫉妬してきた。誰にも渡したくなかったし、特別だったし、特別に思われていたかった。親友と、こっそり呼んでいた。

四年ほど前に、彼について書いたことがある。

こうして繋ぎ止めたところで高校時代と同じ関係に戻ることはない。それがまた辛いんだろうなとわかっているから、いっそこのまま薄れたままでいる方がいいんじゃないかと思って、結局何も送らずにメッセージアプリを閉じる。もう私と彼の人生の線は交わらない。そんなの、よくあることでしょう。

先月の高校の部活の先輩(十年ぶり)も、先週の大学のサークルの先輩(四年ぶり?)も、昨日の高校の部活の同期(五年ぶり)も、終わったと思ったのがふたたび交差している。糸が切れないかぎり、私たちは交わることができる。それを呪いではなく希望だと思えるようになったことが、この四年でいちばん大きな変化だろう。

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お互いの近況報告だとか、共通の知人たちの噂話だとかがひととおり済むと、なんとなく話題が政治に逸れた。左側にいる人間が、大きな政府を是としながらアナキズムに共鳴することは矛盾しないのかとか、アナキズムが実現されたとして、国家や行政の機能を民衆が担うことでそこに国家・階級がまた生まれるのではないかとか、自分の中で答えが出ていなかったことや、理解が足りていないところを尋ねながら雑多な話をしていた。

私自身は大きな政府を志向することから、「リベラル」「社会民主主義者」のあたりに自らを位置づけてきたので、アナキズムにはすこし距離を感じていたのだが、彼の話を聞いていて、これはあくまで対症療法的な、現実に即した観点での立ち位置であり、理念的にはかなりアナキズムに共鳴するところがあるのかもしれないと思いはじめた。

政治学専攻だった彼と政治の話を臆せずにできるようになっていること、何よりもわからないことはわからないと率直に訊けたことに気がついて、私はもうこの人のことが怖くないのだと思った。あの頃は、対等でいたかったから、わからないことをわからないと言えなかったのだ。

かつての私が彼にとっても親友と呼べるものだったのかは、怖くて聞けない。今の私が、相手にとってどんな位置にいるのかは、わりとどうでもいい。たぶん、ここにあるものは不均衡でも歪でもない、ちゃんとした友人関係だと思えるようになったから。遠くなったし、さみしくないわけじゃないけど、悪いものじゃない。

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特権の塊みたいな自分がフェミニストを名乗ることはフェミニズムの簒奪なんじゃないかと思う、という話をしたら、「そんなこと言ったら、俺なんかまもなく法律婚するヘテロのシス男性だぞ」と苦笑いされた。でも望むものを実現するには声が多いほうがいいじゃん、という彼の考えはシンプルだし、真実だ。けっきょく、その過程で誰かを傷つけていないか、踏みつけていないかを自省し続けて、目の前の人間を個人としてあつかうこと、その努力をすることだけがフェミニズムだよねという結論になった。

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自分が存在することをそのままで赦せずにいる、という話もした。彼は、俺には人権がある、それが俺が生きていていい理由なのだ、と言い切った。私も理屈ではまったくそうだと思うのだが、どうも肌にはまだなじんでいない(だから肌に彫り込もうとしている)。高校のころ、クリスチャンの友人が「生きる理由や自分の存在価値は神が与えてくれるものだから、自分で探そうとしたことはない」と言っているのを聞いて、驚いたと同時に、そう言い切れることがすこし羨ましかったのを思い出した。

ところで、また別の友人は、普遍人権思想は国家や資本というシステムの一翼で、個人を抽象化することで、権力の管理対象にしやすくするための仕組みだと述べていて、なるほどと思った。体制が恐れるのは集団だ。民衆は革命を起こせるが、民ひとりでは無力である。事実、私の観測する範囲でも、個人主義の色が強く多様性を是とするリベラリズムのあり方は、それゆえに内部での批判を活発にし、集団への帰属意識を希薄化させ(ときには悪とみなし)、連帯を難しいものにするという脆弱性を孕んでいる。普遍人権思想とそれにもとづく個人主義の、共同体化への親和性の低さが、結果的に体制に利用されるものになってしまっているのだとしたら、かなり皮肉なことだ。権力に与しないかたちで人権を訴えていたいけど、そうなるとやはり、権力と体制と資本主義の代名詞みたいな企業に勤める身で標榜していいものではないのではないかというところに行きつく……サラリーマンはアナキストになりうるだろうか?心持ちの問題としてではなく、生き方の問題として。

カテゴライズやラベリングをすることに意義を見出すというよりは、自分がどういう社会を望み、どう生きたいかを知るうえで、そこらに並んでいるなんとかイズムを片っ端から試着して、どれが私に似合うかしらとやっている状態である。それなりに長い時間をかけて考えているし、いろいろ書き散らしてみているのだが、一向にまとまる気配がない。空が白んできたので、今日はここで筆を置く。

 

追記

リベラルの立場から見るリベラルの脆弱性、それに対する失望感について上で書いたとき、マイケル・サンデルに代表されるコミュニタリアニズムが解決の緒になるかもしれないという考えは頭にあった。眠かったのと理解に自信がなくてけっきょく削ってしまったのだが、普遍人権思想への批判に言及していた友人から教えてもらった動画を見て、もうすこし考えを深める余地がありそうだなと思った。

民衆側から興隆した人権の考え方が、結果的に体制的に利用しやすいものだったという流れかと思っていたのだが、そもそも人権思想の起源がキリスト教(=権威)であることを踏まえれば、人権とは民衆を飼いならすために常に体制から与えられるものであり続けてきた、という動画内の指摘には納得ができたし、これは会社員として生活していても実感できるものだ。マイノリティのアクティビズムにおいて「人権をよこせ」という表現がしばしば見られることにも証明されるだろう。

権力に与しないかたちでの人権を訴えていたいと書いたけれど、この動画の主張をとるなら、人権を訴えることそのものが権力の存在を前提することになる。だとすれば、それは目的地じゃなくてただの通過点であるべきだ。私が社会民主主義を標榜するのも、やはりそれがまず達成されるべき社会のあり方だと思うからだが、「国家は存在すべきか」という問いを考えてみるだに、これもまた通過点だろうと思う。じゃあその先に何があるのか、どこを目指すのかといえば、まったくわからない。未だかつて経験/存在したことのない世界を想像し、あまつさえ実現させようとすることは途方に暮れるような行為だ。今わかるのは、リベラルがリベラルであるかぎり克服できない限界点がすでに見えている以上、代替する思想を見つけなくてはならないということだけである。コミュニタリアニズムとアナキズムの交点があるとしたら、そこが目指すところなのかもしれない。それはそれとして、まだ通過点にすら辿りつけていない今、人権を訴えることをやめるわけにはいかないけれど。