まことの片鱗

ものすごく忙しいわけではないのだが、プロジェクトの責任がまるごと自分の肩に載っているという立場がずっと重くて、それが魚の小骨のようにつっかかっている。なんとなく不安でPCの前に座り続けてしまって、そのくせ大して有意義な時間の使い方をできているわけではないことに自分で嫌気が差してしまって、という悪循環にはまり込んでいる。さっさと片付けてしまって、好きなことに時間を使ったほうがよほど幸福になれることはわかっているはずなのに。

そういうわけで、好きになった俳優がゲスト出演している配信映像を見ながら仕事をしていた。流し聞きにとどめておくつもりだったのに、気づけばすっかり聞き入ってしまった。

先週のライブの感想で、私は彼のことをこう評した。

ああこの人めちゃくちゃマジな人だ、と思ったのだ。物語を知らないなりに、この人の演じる土方歳三が大役であることはわかるし、10周年200公演という歴史のプレッシャーもあるだろうと思うし、そういう責任感を背負ってここに立っている、という気概を、そのカテコで感じたのだった。

整った顔立ちをもっていることが処世の切り札であるように語られることの多い世界だし、事実そういう部分がないとはいわないけれど、芸能の世界はぜったいにそれだけでやっていける場所ではない。初めて見た日の「その技量はたしかに彼の意志をもって培われてきたものだろう」「芝居に対して着実で実直に積み重ねてきた人なんだろう」という印象を裏付けるような配信だと感じたから嬉しかった。

仕事について熱っぽく語る様子を見ていて、この人もまた好きになるべくしてなったのだと思った。自分のやっていることの哲学を語れる人が好きだ。言葉にできるということは、取りも直さず、考えているということだから。考えているということは、そこに矜持があるということだ。人は、どうでも良いと思っていることに言葉を尽くすことはできないから。何より、矜持を持てるまでに至る、そのうしろにある泥くささにどうしようもなく惹かれる。こういう人間性の消費ってあまり褒められた趣味じゃあないのかもしれないけれど、でも他者に惹かれるって(俳優のような遠い相手にかぎらず)そういうものだよなあとも思う。私はその人の端々からにじむ矜持の色にひどく弱い。この人の演じる土方が心の真ん中に落ちてきたのは、きっと彼自身の矜持と、土方歳三というキャラクターの「誠」の交点、彼の泥くささと土方の不器用さが織りなして存在した舞台上の人間の放つ色が凄まじかったからなのかもしれないと思った。ほかのキャラクターを先に見ていたらここまで惹かれることはなかったのでは、というのは今となってはわからないけれど。

その他、話を聞いていて思ったことなど。

この10年で役者のポテンシャルも上がったし、作品の求めるものも高まってきている。客の目も肥えてきている。そこに答えていかないといけない。おのずと負けん気が必要になる。生半可な芝居で舞台に立てない。自分の根本にあるのは負けず嫌い。うまい人がいれば、何がうまいと思うんだろう、何がうまいと思わせるんだろうって紐解いて、できるだけ早く自分のものにしようとしてしまう。苦手な仕事。人前に出るのも好きなタイプではないし、10年以上やっているけれど慣れない。だからこそもっとうまくなりたいという欲で10年以上続けられている。

仕事のスタンスが似ているかもしれない、と聞きながら思った。久保田さんにとって芝居がどういうものかはわからないけれど、すくなくとも私は仕事の中身そのものに愛着があるわけではない。それでも自分のしてきた努力に愛着があるし、その動機にあり続けてきたのは負けず嫌いというところが共通しているのではと思っていた。自分の意思にかかわらず備わっていたものを他者から褒めそやされるのって、ある意味では自分の上限を他者から決められているようで屈辱で、そうして外から自分を規定するものに抗いたくてそこに甘んじるまいと思ってやってきた部分がすくなくとも私はあるし、こういう解釈を他者に当てはめるのは乱暴だけど、彼にもそういう匂いを感じなくもない。ところで、好きな人と自分が似ているという思考は、自分との共通項を見つけたいというファン心理によるものだろうと思っていたのだが、このところはむしろ、他者を好きでいることは、自己愛の形のひとつなのかもしれない、ということをよく思う。私が好きになる人は、結果的に自分に似た人(だと私が解釈した人)であることが多い。

(テニミュで)初代とは違う自分の色を出したかったけど、当時は技量が足りてなかった。その葛藤がすごかったし、悔しかった。そのときはいつでも100%でやってきていても、今見返すと技術の拙さに驚く。それを思うと自分は成長しているのかな。(中河内さんからも「ちゃんと自分の色ついてきていると思う」とコメント)

インターネットを眺めていると、この人の土方にはいろんな意見があるのがわかる。私はこの人の土方から原作や過去のミュージカルのほうに入ったので違和感がないのだが、原作を重んじる人からするとなじまないのだろう、というのもわからないでもない。とくに原作という明確な「正解」がある2.5次元は、そこからの演者の距離感をどうとらえるかという鑑賞者の価値観に演者の評価が左右されるし、キャス変があれば先代の役者にも影響される。酷な世界だよね、という話を友人としていた。余談だけど、劇団四季が徹底した作品主義をつらぬくのは、そういう鑑賞者側の視点による「ノイズ」を排除したいからだろう。そういうノイズによって見えるものが違うのをおもしろがるかどうかは人それぞれだけど、すくなくとも万人受けする芝居などできない、ということを久保田さんはよく知っているのだろうなと思う。それをわかったうえで、彼の考えた土方があれなんだろう、とも。私はそれが好きだから好き。

土方を任されたとき、最初はすごいプレッシャーだった。今年の斎藤編でやっと土方という役が自分に落ちてきた。

この発言を聞いて、迷っていた斎藤編の円盤の購入を決意した。ライブと相馬編でこんなに好きだったのに、本人が「落ちてきた」という演技を見たらいったいどうなってしまうんだろう。

スタッフに自分の土方を褒めてもらって泣きそうになった。緊張の糸がほどけてここからがスタートだと思った。

続投の気配を感じとった!山南編、期待したい……。

自分が演じた作品の映像は見返せない。観たほうが成長できるとわかっているけれど、「こんなものを見せていたのか」と落ち込むから。封も開けていない円盤が家にたくさんある。常に更新はしてるんですけどね。
中河内さんも「過去の自分は今の自分よりちょっと劣ってるから、それを見返したくないっていうプライドなのかな」と同意していた。

今の自分が最高、という考え方が好きだ。私自身、体に彫り込むほど支えにしている言葉でもあるので、ここはわかる!と思いながら嬉しく思っていた。

好きな人を好きだと思っていることについて書くのって、ほんとうに楽しい。注文した円盤の配送状況をしょっちゅう確認してしまう毎日である。