夢のとなえ方

起きると、駅伝は2区の半ばだった。餅を食べる。区間新記録が連発していた。人間って、まだ速くなれるんだ、ということに驚く。箱根駅伝が終わってからは、『SPY×FAMILY』の一挙放送の続きと、昨日寝落ちて結末を観そびれたバラエティ番組の録画を観つつ、夕食時までひたすら去年の総括の文章を書いていた。

夜は煮物の残り、子持ち昆布、黒豆、ディルをまぜたクリームチーズディップとスモークサーモン、ローストビーフ、伊達巻、たたき牛蒡の胡麻酢和え。重箱に詰めるなどたいそうなことはもうずいぶん前からしなくなった。ぜんぶ皿に盛られて出てくる。日本酒は飽きたと母がいうので、今夜はスパークリングワインだった。

親が寝静まってからは、アイナナ第6部の新章を読んでいた。虎於がやっと望みを口にできたことに、ずびずびと泣いてしまった。彼がかかえる無力感って、私もすごくおぼえがある。お膳立てされた、失敗しない道だけを歩くことに慣れてきた。たぶん、今も。これさえやっておけば大丈夫、そうやって中学受験をして、でも入学した場所でうまくやっていけなくて、どこでも良いから逃げようとしたときに、親は許容できる範囲での逃げ道をさっと差し出した。私は自分で逃げる先を探すこともできなかった。会社だってそうだ。ぜんぶ結果論でいえば正解だったから、そこに不満や違和感を持つことそのものが間違っている。どうしたかったのかなんて、考える必要はなかった。

セクゾのドームコンで、彼らの夢が叶う瞬間を目の当たりにしてからずっと、夢ってなんだろうと考えている。私はどう生きたいのだろう。何がしたいのだろう。虎於にとってのスタント挑戦は、私にとっては。そう考えてみると、何を思い浮かべても私にはむりだという声が聞こえてきて、そこで終わりだ。

書いている瞬間の世界には自分しかいないから、文章のなかだけでは自分を偽ったり曲げたりしたことはないけれど、他者を相手にするとそうはいかない。まあこれは多かれ少なかれ誰でもそうだろうけど、相手の望む自分でいようとしてしまう癖は、最近ちょっと自分で気になっている。付き合いの浅い対人関係一般にはそれでかまわないのだけど、それ以上の親密さを求めたい相手に対してこれをやり続けてしまうと、へたすると関係継続が危うい。厄介なのは意識的にやっているわけではないことで、すこし前に連れにも見透かされて、そのままだと前に終わったときとまた同じになっちゃうよと言われて、返す言葉がなかった。

たとえば、年末に一緒に見に行った舞台で、スタンディングオベーションをする私の横で、連れは最後まで立とうとはしなかった。私が好きで素晴らしいと思うものを連れが同じようには思わなかったということに、さみしさがないと言ったら嘘になるけれど、そこを偽らずにいてくれたことへの安堵のほうが大きかった。この人は私に媚びない、という安心感。だけど、これがもし逆の立場だったら、私はたぶん連れに合わせて立っていただろうと思う。この人が評価するのなら、これはほんとうは価値のある作品なんだろう、私が無知ゆえに読み取れていないだけに違いない、と考えて。そうやって自分でも意識せずに自己否定をする習慣というのはけっして望ましいものではないはずだ。今回は、私がすでに何度も観ている舞台で、自分の中でその価値が揺らがないものになっていたから、連れとの感覚の相違をフラットに受け止めることができたけれど、それでも連れが立たなかったことで、自分の感覚への不信感が芽生えたのもやはり事実なので。私は正しくなくて、それ以外のすべてが正しい。そういう恐怖を、どう手懐ければいいというのか。

アイドリッシュセブンの物語は、基本的にはアイドルたちが守られる側で、マネージャー陣が見守る側という構図ではあるけれど(Re:valeは大人組のあつかいだけど)、ŹOOĻのマネージャーが、マネージャーとしては不完全な宇都木さんだっていうのが良いなとしみじみ思った。守る側と守られる側はかならずしも上と下の関係ではなくて、だからこそŹOOĻ自身も、宇都木さんの不完全さを補うなかで変化してゆけるんだよなあ、と思いながら読んでいた。大人でも対話に失敗してもいい、そこで対話をやめなければだいじょうぶ。

こうやって、物語に意義を見出そうとしてしまうのも『東京原子核クラブ』で谷川が愚かと断罪する、実用的効能を求める行為になるんだろうか。でも、効能のない芝居って何も観客の中に残らないってことじゃないだろうか、と最近は思う。私は他人の生み出した創作をすべて自分に引き付ける読み方しかできない。何を読んでも何を観ても、それらが自分の思考に、生き方に何かをもたらすことを期待してしまう。そうじゃなきゃ、けっきょく読んで/見ていないのと同じだと思うから。