ミュージカル『憂国のモリアーティ』 Op.4 鑑賞後記

※2/7時点で書いたものに随時追記修正している。いろんな回の話がごちゃまぜ。
※トータル1万字超あります。なげえ。

 

感想の前に

このひと月、過去作の配信映像を文字通り毎日観てひたすら心待ちにしていた。大阪公演は予定があって行けなかったので、私の初日は2月2日、東京公演の初日。昼は仕事だったけれど、楽しみすぎて何も手につかず、散漫なまま16時半に早々に切り上げて劇場に向かった。なにせ、久保田さんを好きになってから初めて、この目で彼の演技を観に行くのだ。この2ヶ月半、映像でばかり観ていた彼を、ようやく。気が逸らないはずがない。気持ちばかり募って、期待値を上げすぎていたらどうしようという考えも頭をよぎったが、杞憂だった。久保田さんは、映像の中で観てきたよりももっと、ずっと、好きな俳優だった。

でも、久保田さんだけじゃなくて、この作品のことが、この舞台のことが大好きになってしまった。シリーズ4作目とはいえ、生で、この体でこの舞台を鑑賞できるタイミングで好きになれたこと、ほんとうに幸運だ。

平等を重んじ、差別と暴力に抗いたいと願うひとりのフェミニストとして、不均衡な権力勾配を打開し、人々の権利を獲得しようとする闘争、革命の意志を描くこの作品に惹かれたのは、必然だっただろうと思う。ただ、それ以上にこの舞台に惹きつけられているのは、演出の西森さんや座長のウィリアム役鈴木勝吾さんをはじめとして、このカンパニーから、これをただの物語で終わらせたくないと思っているのだろうという熱を感じるからだ。この人たちは、現代にこの物語を明確に重ねている。

演出の西森さんのこのつぶやきを見て、この作品を演出するのがこの人で良かった、と思った。

作曲のただすけさんや、

Op.3でアータートン主任警部を演じた奈良坂さん。

友人とも話したことだが、キャストもスタッフも、こういう意識を、同じ言葉を共有している印象がある。

ちょっと前にこんな文章を書いたことがあった*1

こうやって、物語に意義を見出そうとしてしまうのも『東京原子核クラブ』で谷川が愚かと断罪する、実用的効能を求める行為になるんだろうか。でも、効能のない芝居って何も観客の中に残らないってことじゃないだろうか、と最近は思う。私は他人の生み出した創作をすべて自分に引き付ける読み方しかできない。何を読んでも何を観ても、それらが自分の思考に、生き方に何かをもたらすことを期待してしまう。そうじゃなきゃ、けっきょく読んで/見ていないのと同じだと思うから。

勝吾さんは今回の公演パンフレットで、演劇は必要なもの、知ってほしいものを知ってもらうためのものでなくてはいけない、この作品であつかわれる権力と権利という人類の普遍的なテーマを受けてどう個人が思考し行動すべきかという形の提示であるべきだ、と話していて、私は東京初日の開演前、客席でこれを読みながらちょっぴり泣いた。上で引用した私の考えに重なるものがあって嬉しかったからだ。エンタメとしてその政治性が脱色されがちな昨今にあって、その政治性を真正面から観客にぶつけてくる俳優のこと、好きじゃないわけがない。

"今"という時代を生きる一庶民、一民衆、理不尽や嘘、搾取のない世界を国を思う、当たり前に皆様と同じ一人の人間として、この作品が持つ「心」と「願い」が伝わればと思います。

Op.4 公演パンフレットより

こういう俳優が出る舞台を見に行けることが心から嬉しい。

薄ミュライブで久保田さんを知った時、彼について、私はこう書いた*2

触れたら肌を切り裂かれそうな真剣さで演技に、舞台に向き合っている人がいることを目の当たりにして、観客である私のほうも舞台に真剣に向き合いたいよなという気持ちにさせられた公演だった。

久保田さんはもちろん、平野さんや勝吾さん、キャストのひとりひとりを見ながら、何度もこの言葉を反芻していた。あらためて、”今”、この作品が上演されていること、それを観られたこと、心から嬉しい。

ここから舞台感想。ネタバレは一切配慮しません。

舞台感想

第1幕

アンサンブルのロンドンの人々が犯罪卿とは何者かと問うオープニング曲、「英雄  悪党 義賊 犯罪者」というフレーズのところ、とある回で私の座席の正面が伊地華凛さんだったので表情がよく見えたのだけど、「英雄」と犯罪卿を称えて歌うとき、目がきらきらしていて、心から犯罪卿に心酔して望みを寄せているのだというのがよくわかって目が離せなかった。好きな踊り方をするし、気づけば目で追ってしまうアンサンブルさん。今回伊地さんのウィギンズに会えなかったのがかなり残念。

ウィリアムの登場ソロ、冒頭から死を望む姿の痛々しさに呼吸を奪われる。誰もいない板に落ちるピンスポットライトが、シャーロックの存在を示す。ウィリアムが「罪深き僕の魂を君の手で捕まえてほしい」と歌いながらその光に手を伸ばした瞬間に光がふっと消えてしまうのが、切なくてすごく好きだった。

テーマ曲前のウィリアム、シャーロック、ミルヴァートン3人の曲、三者三様の詞を歌っているのに、最後の最後で音が重なるところが大好き。ぐわっと気持ちが盛り上がってからテーマ曲につながるまでに一瞬落ちる沈黙が、これから始まるのだ、という期待を募らせるようでたまらなくて、毎回どきどきする。

テーマ曲、手を胸に添えて礼の姿勢で立つアルバートが、「この身悪となりて」の歌詞に合わせて指先で胸にとん、と触れる仕草をしていて、初めて観た時は心臓に来すぎて、あやうく腰が浮きかけた。佇まいは凛として優美なのに、その身が悪に染まっていくことに自覚的なのだと、それゆえにアルバートの内に秘める野心が見えた気がして、それをたったひとつの指の動きで示せてしまうことにひたすら感服してしまった。毎回やっているわけではないのだけど、何度見てもぐっと来てしまうのでいくらでもやってほしい。

ホワイトリーの人間性を試す相談をしていて、もし失敗したら、という話になったときに、ウィリアムの「彼が立ち向かえなかった時には、僕がすべての始末をつけます」という言葉に、わずかに視線を揺らすアルバートがほんとうに好きで、他のキャストを見ようと思っていてもここだけは凝視してしまう。回によっては、その後4人を残して部屋を立ち去るウィリアムを追うように一歩踏み出していることがあって、たった一歩ではあるけど、日頃余計な動きのすくないアルバートがそうして動いてしまうことに、まるで追い縋ろうとして必死に理性で自分を押し留めたように感じられて切なかった。ウィリアムがすべてをひとりで抱えこもうとするのをわかっていて、でもそれを止めることすら自分のエゴにほかならないと、すべての始まりとなった罪が自分にある以上そんなことはできないと。これ、毎回やっているわけではないので、久保田さんの感情から来る動きなんだろうなあと思う。大好きです。

アルバートとモランの会話から続くモランのソロ、今回のOp.4の楽曲で指折りに好き。Op.2の序盤、バスカヴィル男爵の人狩りのことをウィリアムに相談しようか迷うフレッドに対してモランがかける「どうしたフレッド 俺の兄弟分」というパートですっかり井澤さんの歌声の虜になってしまったのだが、その歌声に存分に聴き惚れることができるのがこの曲。今回の舞台では描かれていない原作15巻の空き家の冒険編の内容を踏まえて聴くと、モランの悲哀とウィリアムへの不器用な愛情、忠誠がさらに痛々しくて心臓が引き絞られるような気持ちになる。3階席で観た時、モランの立ち位置を囲んで閉ざすように四角く光が当たる照明になっていて、それが彼の孤独と、彼が歌うウィリアムの孤独をよく表現していて好きだなあと思った。

そのあとのルイスとフレッドのデュエットは、モランソロの音域が低めだったのとは対照的に、ピアノのきらきらとした高音のならびがふたりの純朴さを表しているみたいだ。ウィリアムの定位置であるソファにピンスポが当たっているのもいいなあと思う。姿が見えなくても、いかに彼らにとってウィリアムが大きな存在なのか、と思いを馳せてしまう。

ホワイトリーが招待した車椅子の子どもたちが公園ではしゃぐ姿を見ながらのソロの詞がすごく好きというか、この物語のテーマそのものだよなあと思う。「生まれ身分の差別なく 不自由抱える者も 誰もが生きる喜びに満ちる世界を 平等な世界をつくりたい」……フェミニストの友人たちと遊んで、誰も取り残されない社会を実現したいと話したあとに観劇した日があったのだが、よけいに響いてぼろぼろ泣いた。勝吾さんがパンフで話していたことでもあるよね。

バイオリンとピアノの演奏のみだった過去作との大きな違いのひとつに、オルガンの音が加わったことがある。神聖さから不穏さまでいろんな表情を見せてくれてすごくおもしろかった。アルバートとホワイトリーが会話する際のアルバートソロの曲は、賛美歌の終わりに入るアーメンと同じようにロングトーン2つで締めくくられるのだが、ミッションスクール育ちとしては懐かしさを禁じえなかった。

スターリッジを唆すときのミルヴァートン陣営、怖すぎて鳥肌が立ってしまう。ミルヴァートンの背後のスクリーンには原作でも使われているウィリアム・ブレイクの絵画『巨大な赤い龍と太陽の衣をまとった女』が映る。ヨハネの黙示録の挿絵で、聖母マリアの前に立ちはだかるサタンを描いたものらしい。無力な者の前で力を誇示するサタン、なるほどミルヴァートンである。

スターリッジがサムを殺した後に嘔吐していて、人を殺すという行為の醜悪さ、重さをあまさず伝えていたのがよかった。このシーンがあったことで、そういう心に負担のかかる行為を、ウィリアムはずっと、何年も抱え込み続けているのだよなあ、と思い至ってちょっと呆然としてしまった。スターリッジといえば、サムが登場したときに会話しているところも好き。台詞はないが、サムの着けているリボンタイをスターリッジが褒めている?か何かしているのだと思う。しきりに兄であるホワイトリーを心配してばかりのサムが笑顔で会話することのできる相手、信頼できる相手。それなのに、というギャップが重い。ホワイトリーの切実な慟哭も胸をつくものがあって、ここもいつも目の奥がぐわっと熱くなる。

殺人を犯したことを告白し膝を折ったホワイトリーのそばに寄り添うウィリアム、ホワイトリーの手を握るときもあるのだが、2/7ソワレではホワイトリーの頬に手を添えていて、それがもうすごく優しい手付きで胸が詰まった。

ホワイトリーが最後の演説で家族を殺された話をするとき、聴衆のアンサンブル(たぶん永咲さん?)が十字を切っていたの、庶民の生活に信仰が根付いていることを感じさせていいと思った。そういうこまかな演技がひとりひとりを、大英帝国に生きている個人として際立たせる。その後ウィリアムがホワイトリーを刺す現場を目撃したあとの、伊地さんの希望を奪われた表情も良い。オープニング曲で犯罪卿を英雄と心酔していただけに、裏切られた失望は計り知れないものだっただろう、と胸が痛む。

なぜ自分の罪を背負ってくれるのかと訊ねるホワイトリーに、ウィリアムは「僕こそが犯罪卿だからです」と答えるのだが、これも「僕たち」ではなく単数形なのが悲しい。ルイスがすこし身じろぎをする一方、アルバートは無表情をつらぬく。Op.2のアルバートの、アイリーンとの取引での「これはすべて私が企てたことなんだよ  犯罪卿のジェームズ・モリアーティが」という詞をどうしても連想してしまう。この場面では、犯罪卿が3人だとアイリーンに悟られないためにアルバートが一人称単数形を使うのは当然なのだが、それ以上に彼自身が「自分だけが犯罪卿であるべきだった、自分だけが罪を背負いたかった」という気持ちが後ろにあったのかもしれない、と今回のOp.4のウィルの台詞を聞いて思った。

ホワイトリーの最期の歌で、最初は暗めの寒色照明ではじまって「願わくは見届けたかった」と歌うところからやわらかな暖色に変わるの、たしかにウィリアムたちはホワイトリーに希望を与えたのだと感じさせるのが好き。音楽的な知識にはまったく自信がないけど、曲の雰囲気も同じところで変わるのでたぶん変調している……?なんにしても、舞台ってほんとうに総合芸術だなあとぞくぞくしてしまう場面のひとつ。

Op.1のときからわずかに感じられたウィリアムの危うさは、ここに来て目の逸らしようがないほどにあらわになる。歌声こそ力強いものの、ウィリアムが「怒りの刃を向けるがいい」と自らを傷つける方向に追い込んでいく姿は痛々しい。マントさばきが本当に好き。アンサンブルの振り付けに足踏みが取り入れられているのも、迫力があって大好き。

1幕最後の曲のアルバートの詞は「希望の光 そのひとつ立ち消えた」というもので、もちろん民衆の希望の意味もあるだろうが、何よりウィリアムが生きてゆける未来へのアルバートの希望が立ち消えたということだと千秋楽前日に気がついて、ちょっと放心してしまった。

1幕、実際に2幕よりも上演時間は短いのだが、それにしても体感であっという間。秒で終わるって毎回言っている。

第2幕

台詞の分量が比較的多めなパート。楽曲好きとしてはやや物足りなさもあったけれど、好きなシーンはたくさんある。裏シャーロックことバイオリニストの林さんが舞台の中央近くまで出てきて、シャーロックと背中合わせでピチカートの演奏をするところとか、バーソロミューの死体を見つけたとき、動揺もせずに楽しそう状況の検分を始めるシャーロックとか。ハドソンさんとメアリーのお茶会でのハドソンさんソロも好き。一緒に出てくる女性アンサンブル3人がこっそり愉快なわちゃわちゃを繰り広げているの、愛。レストレードのソロも楽しくて最高だし、こういうのができるからミュージカルって好きだ。

船上のシーンはとりわけ好きなところ。すこし前の日記*3にも書いた、「舞台は観客の想像力をもって初めて完成する」というのを考えることになったきっかけがここだ。これまで屋内の2階部分として使われてきたセットの上が、ここでは船上になる。ピアノのペダルを踏んで音を響かせることで、川の流れのとうとうとした感じを演出するところ、たまらなく好きだ。照明もちらちらと光がちらつくようなフィルターが入っていて、陽光を水面がはねかえしてきらめく様が伝わってきて、ともすれば見ているこちらまで風を感じそうなくらいだ。ジョナサン・スモールの仲間が吹いた吹き矢をレストレードが後ろでキャッチしている時があって笑った。スモールたちを追い立てて中央で銃をかまえるシャーロック、あまりに少年漫画の主人公。

交渉のシーンでラスキンがシャーロックのヴァイオリンに放尿するところ、水音はSEで当てているのだと思っていたので、ほんとうに水をかけていることに気がついた時には驚いた。このシーン、ミルヴァートンもさることながらラスキンのいやらしさがよく見えていいなあと思う。吉高さん演じるラスキン、いろんなところで潔癖症らしき仕草があるのだが、1幕での「きれいは汚い 汚いはきれい」というシェイクスピアの小説からとった詞のとおり、ラスキンにとってはミルヴァートンだけが「きれい」で、それ以外が「きたない」ということなのだろう。

交渉が決裂してミルヴァートンが帰ったあと、シャーロックのストラディヴァリウスが無事だったと弾いて見せる曲でも、シャーロックの運弓が裏シャーロックとぴったり合っていてさすがだなあと思う。シャーロックとジョンがミルヴァートンの屋敷に忍び込む相談をはじめる後ろでハドソンさんが呆れたような表情をしているのもすごく好き。

ウィリアムを除いたモリアーティ陣営4人の曲、これが今回のOp.4でぶっちぎりで一番好き。というより、4作合わせても一番好きかもしれない。アルバートとモランがウィリアムの願いを叶えようとする一方で、フレッドとルイスはそれをみとめられずにいるという、年上組と年下組の立ち位置の違いが際立つ曲だ。原作では後になってフレッドとルイスがウィリアムを意思に反してでもシャーロックにウィリアムを助けてくれるよう頼みに行くのだが、きちんとその伏線になった歌詞になっていて、西森さん、さすがだなあと思う。ルイスパート冒頭の「渦巻く予感に」の歌い方が好きだし、切々とした声音で歌い上げられる「兄さん どうかいなくならないで」は胸に迫るものがある。勝吾さんがツイッターで「とある曲の最中に、歌唱の仕方で『血』のつながりを感じる場面がある」と言っていたのはここかなあと思っているのだけど、どうだろう。何よりも好きなのは、アルバートの「進め この道を ウィリアムが決めたなら」のところ。ここ、1幕のウィリアムとの会話での「目的を達成するためには何事にも代償がつきものだ」というアルバートの言葉が思い起こされて悲しい。アルバートにとってウィリアムの願いを叶えたいという目的は、ウィリアムを失うという代償によって叶えられるのだから。その痛みを覚悟したうえで発される「進め」という言葉は、血が滲んでいるように聞こえる。その痛々しさをともなう力強さに、ああ私はこの発声で久保田さんのことを好きになったのだ、と初日は嬉しくて涙が出た。双眼鏡越しで見ることすらもったいなく思われて、板の上にいる彼の姿をまばたきもせず穴があくほど見つめてしまう。こんな表現しかできないことが悔しいけど、佇まいが、存在が凛としていてほんとうに、ふるえるほどに格好いい。アルバートのパートと並んで好きなのが、最後の「心は千々に乱れて」からのロングトーンのハモリ、とにかく美しくて、聴くたびにぞわっと肌が粟立つ。早くまた劇場で聴きたい。舞台を観るとき、この瞬間のために私は劇場に来たのだ、と思わされるような場面に出会えることがあるが、私にとってはこの曲がそれ。

屋上のシーンは稽古写真が出たときから楽しみにしていたけれど、想像以上だった。舞台袖から聞こえるシャーロックの「帰ったぞー」という声が、あまりに呑気で、平和で、221Bはたしかにシャーロックの帰る場所なんだなあ、と思ったら泣けてしまってどうしようもなかった。屋上でシャーロックがジョンに結婚する理由を尋ねたとき、すねたような、案じるような、色んな感情がないまぜになった顔をしていて、それがいじらしくて愛おしい。「これがきっと友情ってやつなんだな」なんて面映ゆい詞をさらりと歌うくせに、ジョンが「おまえの口からそんな言葉が出てくるなんて そんなふうに俺を思ってくれて叫びたいくらいに嬉しいよ」と喜びを前面に出した瞬間に照れてしまうところも。シャーロックとジョンが高台のセットの左右に立って、シンメトリーに照明があたっていて、ふたりの対等な関係がよく見えるのが好きだ。

続くウィリアムのソロはうってかわって重い空気が立ち込める。民衆の怒りが、恨みが、ウィリアムに突き刺さる。消えてしまいそうで、死に魅せられて、ほんとうに遠くにいってしまいそうな儚さをまとって。アルバートはウィリアムのことをたびたびキリストに重ねるが、このシーンは象徴的だ。左右から斜めに交差するように当たる照明はどことなく十字架を背負っているようにも見えるし、椅子の上に立つところはゴルゴダの丘を登るところになぞらえているのかなと思った。赤い布で炎を表現するのもいいなあと思う。

原作16巻はアルバートの話だから読めと友人に勧められて、初日が終わってから読んだ。2日目、読んでから聴いたアルバートのソロの破壊力は凄まじいものだった。アルバートが2階にいて、1階のウィルを見下ろす格好になっているの、ふたりが同じ地平にはいないのだというのを際立たせていて、シャーロックとジョンとはあまりに違いすぎて胸が痛くてたまらなかった。最後の詞で「これしか言えぬ兄をどうか」に続く言葉が「赦してくれ」ではなく「呪ってくれ」であるところも、アルバートの苦悩が深まっていく様をよく表している言葉選びだと唸ってしまう。16巻を読んだ今ならわかる。アルバートはもうウィリアムに赦しまで求めてしまうことを自分に赦せないのだ。呪われることを願うしかできないのが切ない。ちょうど下手席で入ったとき、アルバートの頬を涙が伝っているのが見えて息を飲んだ。それを拭おうともせず、平静をたもってウィリアムに声をかける姿も、ウィリアムが呼びかけにこたえて身を起こし部屋を出ていったあともその背中を視線で追うのも、ぜんぶ痛くて悲しい。

Op.3を観た時、こんなことを書いた。*4

私がアルバートを好きなのは、ウィルの孤独を自分は癒やし得ないことを知っているところなのかもしれない、と思った。何を言ってもウィリアムの奥には届かない、響かない、それをわかっていてなお、共にある意志を見せ続けるのは、アルバート自身が信じるものをたしかめるために必要な言葉でもあるのだろうと思う。

このソロ曲の直後、机に伏して眠るウィリアムの傍に立って「おまえはひとりではない。私が共にいる」と声をかける時、ウィリアムの肩に手を置くのをためらっているように見えた日があった。共にいる、という言葉の空虚さを振り払おうとしている、と思った。あらためて好きなキャラクターを好きな役者がやってくれること、ほんとうに嬉しい。久保田さんの演じるアルバートが大好き。

日によっては「私が共にいる」とアルバートに声をかけられたウィリアムが、目を閉じてすこし微笑むような、安堵したような表情をしていた時があって、これが16巻でいう「僕は兄さんに甘えていた」ってことだろうかと胸が詰まった。だって、その顔をアルバートが見ることはないのに。

ここから舞台はミルヴァートンの別邸に移り、クライマックスにむかう。原作にあるミルヴァートンの別邸の場所を特定するためにシャーロックとジョンがわちゃわちゃするエピソードはばっさり削られていて、妥当な判断だろうと思いつつ、舞台でやったらおもしろかっただろうなという惜しさもある。これは友人に教えてもらって気が付いたことだけど、襲撃に気がついたときのシャーロック、ジョンの方見向きもしないで屋敷を凝視しており、嬉しくなった。おまえはそういう男だよなあ。ジョンの「絶対に無茶はするなよ!」に対しても生返事だし。

殺陣も見応えがあって大好き。ちゃんと一人ずつ見せ場がある演出もいい。久保田さんの殺陣ってほんっとに優雅で見飽きない。あとモランとラスキンがやりあうとき、ラスキンの持っている銃をモランが撃って、銃がラスキンの手を離れてすっとんでいくところがすごく好き。あれ、毎回ほんとうに撃たれたように見えるので、吉高さんすごいなあと思っている。

ミルヴァートン邸での3すくみのシーン。ミルヴァートンの長口上のあと、「なあ、リアム」とシャーロックに呼びかけた瞬間、それまで微かに聞こえていた海の波音が途切れるのもあまりに好きすぎる。あの瞬間、世界にはふたりしか存在しないみたいで。入った公演のうち、前半はどちらかといえば下手席が多く、ウィリアムの表情があまり見えなかったのだが、上手席で観劇した際はもう心の中での悲鳴を上げっぱなしだった。シャーロックが「リアム、そうだよな?おまえがここにいるってことは、間違いなくそうだったんだ」と呼びかけるとき、わずかに嬉しそうに口角を引き上げていたのだ。その瞬間だけはきっと、罪の意識も、死の誘惑も忘れて。これを受けて「ま、待て待て待て」と動揺してしまうミルヴァートン、突然それまでの悪魔っぷりが薄れて可愛く見えちゃって、つい口元が緩む。ミルヴァートンの「強がりはやめろ、シャーロック・ホームズ」とか、ウィリアムの「あなたが謀った策まですべて僕が計画したとおりです」の旋律がものすごく好き。このウィリアムの言葉を聞いて、シャーロックが嬉しそうに笑顔を浮かべるところも大好き。

俺の望む形でつかまえてやる、とまっすぐウィリアムの目を見ていうシャーロックに、ウィリアムは「その言葉に対する僕からの返事は以前と同じですよ。Catch me if you can, Sherlock. 」と返す。思わず心の中で、同じじゃねーーーーんだよ!!!と叫んでしまう。だって前のときは名前ではなく、Mr. Holmesって呼んでいたのだから。大千秋楽では私が観たかぎりで初めて、はっきりと笑みを浮かべてシャーロックの名を呼んでいて、思わず息を飲んだ。

続くウィリアムのソロは、もう圧巻というほかない。こんなにもまっすぐに届く声なのに、悲痛な、血がにじむような歌声。これについては言葉を尽くすよりも、もう聴いてくれ……としか……。

シャーロックが釈放されて牢から出てくるときの鍵が開くがちゃん、という音、あれはウィリアムの鍵が閉じてしまう音でもあるのかもしれない、とセンターに膝をついてうなだれたまま血にまみれた自分の手のひらを見つめるウィリアムの姿を見て思った。シャーロック、早くおまえがその鍵を開けてくれよ、と願わずにはいられない。

そのあとのシャーロックのソロも圧倒的。「俺がおまえをとらえてやる」という詞で、それまでうなだれていたウィリアムにピンスポットがあたって、ウィリアムが顔を上げて安心したように笑うのが、あまりに胸が痛くて、ここはほんとうに毎回泣かずにいられない。曲の最後、"I will catch you, Liam" と叫ぶように歌いながら、シャーロックの視線はずっと空を彷徨うように動く。「同じ地平で、同じ景色が見たいんだ」と言いながらも、どうウィリアムに追いすがればいいか、まだ見えていないのだなあと思う。それでも、必ずとらえると、ウィリアムを諦めないと、深い霧の向こうまで探しに行くのだと声を届けるように歌い上げる姿があまりに眩しい。ここ、わずかに舞台上にスモークが焚かれている?霧っぽさがあってすごく曲に合っている。

この曲、Op.2のシャーロックのソロ「人の世は無数の糸もつれあう  時に人は消せない過ち犯す  殺される理由があったとしてもだからといって殺されて良いわけじゃねえ  あいつは俺が守る  罪負って人の世を思う  その心の灯火  消させるわけにいかねえ」という詞を思い出す。この曲はアイリーンについてのものだが、このOp.4の最後でやはり罪を犯してしまうシャーロック自身、そしてもちろんウィリアムたちも含めて、誰もがシャーロックのこの言葉に常に収束し続ける。そして、これはモリアーティたちを主役とする原作から、ウィリアムとシャーロックを対照的なふたりの主人公の物語として、勝吾さんのパンフレットでの言葉を借りるなら「傾けた」ミュージカル版でより強調されているとも思う。これは誰も取り残されない世界を望む物語。

エンディング曲を経て、終劇。「心は千々に乱れ」て、ほころびが目立ちつつあるモリアーティ陣営と、ジョンとの友愛関係を確たるものとし、人間としても成長して光を増してゆくシャーロック側と。ここで終わるだろうとわかっていても、やはりまだ光の見えない状況が苦しい。早くOp.5ですべてを光に包んでほしい。

とにかくすばらしい舞台に出会えてほんとうに嬉しい。早くまた観たいし、ずっと終わらないでほしいと願ってしまうけれど、なによりまず、残りの公演も、無事に走り切れますよう。