2023/3/21

早番出勤の連れを見送り、そのまま起きて2時間ほど勉強する。午前中の会議を終えたら今日は店じまいで、連れの住む街まで出かける。雨予報は外れたらしく、汗ばむほどに暑い。

早番を終えた連れは行きつけのアメリカンダイナーで野球の日米決勝戦を観ていたようで、ひとりでテンションが高かった。私はスポーツ観戦にはあまり興味がないのだが、連れがあまりに楽しそうなのでちょっと羨ましい。

連れが住むのは私たちの卒業校のある街である。卒業してずいぶん経つのに、いまだに街に降り立つと郷愁で胸が潰れそうになる。町並みは大きく変わらないが、すこしずつ店が入れ替わっていて寂しい。久しぶりに寄ったおにぎり屋の夫婦はずいぶん年を取っていた。桜を見物がてらキャンパスにも足を踏み入れたが、見慣れない校舎が増えていたり、ゆきかう学生たちが幼く見えたりして、自分の居場所がここにはもうないことに突き放されたような気持ちになった。在学中はほとんど接点のなかった私たちは、学生時代のお互いのことをあまり知らないのに、この場所での時間が錨のように私たちをつなぎとめている。ずっと苦しかった時期だけど、過ぎてしまえばひたすらにいとしい。ここに帰ってくるたび、またあんなふうに勉強したいと思う。私がまた大学に行きたいと思うのは、所詮ただの郷愁であり未練である。

キャンパスをひとまわりしたあとは、近くの公園でレジャーシートを広げて花見をした。酒屋でたまたま目に留まったスタウトのクラフトビールが生きてきた中でいちばん美味しかった気がする。ジャケ買いした日本酒もおいしくて、たらふく食べて飲んで、うららかな春の風の中で昼寝をしていた。

完璧な一日だったはずなのに、夜になってから花粉症の症状がひどくなって散々苦しめられた。春の匂いに浮かれてさんざん深呼吸をしていたのが悪かったらしい。

私は連れのことをたいそうおもしろい人間だと思っていて、おもしろいから一緒にいるし、それは連れもどうやら同じらしいのだが、私には連れのいう私のおもしろさが何のことだかわからない。もっとも、連れが他者に向ける興味というのは基本的に物語の材料に対する視線である、とは本人の談であって、交際相手という立場を利用して、人間の(おそらくは交際関係にある間柄で観測できる)情動を収集したいという思惑がある、と正直に言われたこともある。それだけなら一緒にいる動機は明確だ。物語を収集するという目的において、交際関係にあるかどうかというのは、いわば物語の収集方法の違いにすぎない。だが時々、物語の材料として以上の意味を、すなわちその他大勢と私を画す何かを、連れが自分に見出しているようにも思えて、どうにも身構えてしまう。私はたしかに唯一だが、平凡でありふれた人間である。つまり、交際関係にある人間の情動を収集するという役割であれば、私である必要はないはずなのだ。だから連れが私と一緒にいるために努力しているらしき片鱗を見ると、不可解でぎょっとしてしまう(代替を見つけるよりも関係維持のほうがコスパがいいのかもしれないというところまで考えたが、さすがに申し訳ない気がしてきた)。人はわかり合えないものだという諦念はいまだ振り払えずにいる。相互理解の対話をあきらめた以上、私にとって他者とのコミュニケーションは利害のすり合わせの手段の意味が強い。他者に期待をしないということは、そこからどんな関係も発展しえないと思っているということだが、連れといると、私がそうして閉ざした場所を切り開かれていると感じることがある。その感覚はたぶん、恐怖に近い。人が人といることに、利害関係とは別の何かがあるのかもしれない、と期待してしまうことの恐怖。まあこれらもすべて、物語の材料に過ぎないのかもしれないけれど。