2024/4/8

会議がないのをいいことに、10時すぎまで眠る。雨予報だったが、曇っている。昼前の会議が始まるまでに、十数ページだけ残っていた恩田陸の『木洩れ日に泳ぐ魚』を読み終えた。大学時代、学校の帰り道に立ち寄った古本屋でなんとなく手にとって、そのときに読んでいるはずなのだが、ほんとうに読んだのか疑わしいほどに記憶が抜け落ちている。当時の自分には響くものがなかったのかもしれない。今回だって琴線に触れたというほどでもないのだけど、おもしろいと思えたことは確かだし、そのおもしろさはあの頃の自分にはわからなかった類のものだろうとも思う。

僕は今感じている自己嫌悪が単なるアリバイ作りに過ぎないこともちゃんと分かっているのだった。僕の計算高い部分が、ここで自己嫌悪を感じておくべきだと判断しているので、僕は自己嫌悪を感じているふりをしているだけなのだ。そうすることで、世間や他人に対する免罪符を手に入れたと安堵しているに過ぎない。
 本当の僕は、罪悪感も自己嫌悪も感じていない。
 何も感じていない──そう、何も。たぶん。

自分のことだなあ、と苦い気持ちで読んだ。自分のこういうずるさを直視できるようになったのはずいぶん最近のことだ。

正しいふるまい、こうしておけば世間に顔向けできるというふるまいを、私は知っている。何がずるいって、その正しさは私の信念にもとづいているというよりも打算的で、「それが正しいことだとされているから」、より正確に言うならば「それが正しいことだとされるコミュニティ内で嫌われたくないから」採用されるのである。

誰かと関わることや、外に向けて言葉を発するということは、いつだってそのふるまいに従うということで、そうしているうちに私が感じていたはずのものは汚く間違っているものとして覆い隠されて、なかったことになる。日記にしても、今はすっかり辞めてしまった創作にしても、自分に嘘をついたことはない。私が私でいるために書くんだから、嘘なんか書く意味がない。だが、嘘はつかずとも、外に出すために整形した時点で、私は私を削ぎ落としている。それは部分的であれ、自分の否定を伴っている。社会に、他者と生きている以上、そのふるまいから自由になることはできないし、なるべきでもない。でも、それを続けているうちに、コーティングするまえの自分は救いようのない、誰ともかかわるべきではない人間であるような気がしてくる。その閉塞感のせいで、私の表現するもの、ひいては私の存在が価値あるものだと信じられなくなっていく。

ところで、読んでいるあいだは、部屋の情景がくっきりと浮かんでいたわけではなかったのに、だいぶ前に読んだという連れの「男女が部屋で二人でひたすら喋る話だったよね」という言葉で、ぱっと舞台で演じられている様子が目に浮かんだ。どうして思いつかなかったのだろうと思うくらい、舞台向きの作品だと思った。二人芝居で観てみたい。

それにしても、きょうだい間の恋愛・性愛というのは、どうしてこうもタブー視されているのだろう。かつて、まだ性行為と生殖が切り離せなかった頃の世界にあっては、遺伝的な疾患リスクから忌避されていたことはわかるけれど、避妊ができるようになった今の世界でそれらは別ものだから、別にセックスくらいしたっていいのではないかという気がするし、感情的な結びつきならなおのこといけない理由がよくわからない。

昼食はインスタントの葱にんにくラーメンに、ごま油で炒めた豚肉とキャベツを具にして食べた。夕飯は連れが帰宅してから作りはじめたので遅くなってしまい、『終末トレイン、どこへ行く』の2話を観たかったのに間に合わなかった。献立は茄子と豚肉の甘味噌炒め、新玉葱とマッシュルームとズッキーニの塩胡椒炒め、新玉葱のコンソメスープ。どれも美味しかったのだけど、最後にスープに粉チーズを振るのを忘れてしまったのが痛恨。食後は『葬送のフリーレン』と『ダンジョン飯』を1話ずつ観て、残っていたマシュマロでスモアをまた作って食べていたら、寝るのは2時近くなってしまった。