2023/5/5

朝番の連れを送り出して二度寝し、正午すぎに目を覚ましたものの、午後1時近くまで布団で漫画を読み耽る。なんとなく触れる作品の間口を広げたいと思って、たまたま流れてきた広告で興味を惹かれた『コウノトリ』とか『フラジャイル』とかを読んでみたら、けっこうこれがおもしろくて、ちまちまと読み進めている。

起きてからも、洗濯機を回す間に『SLAM DUNK』の続きを読んでいた。映画で観たから展開はある程度わかっているはずなのに、それでも息を飲んで祈るような気持ちでページをめくっていた。映画を先に観てよかったかもしれないと思う。音が耳の奥で聞こえるようだった。読み終えてはじめて、自分が泣いていたことに気がついた。ああ、もう一度映画も観に行きたいなあと思って漫画を貸してくれた友人の顔を思い浮かべていたら、当の友人にも私が誘おうとしているのを見透かされていた。くすぐったい。

洗濯物を干した後はスマホを家に置いて、本を読みにひいきのカフェに。五月の賑やかしい明るさも、この店に入った瞬間に遠く隔たれる。いつもどおり暗くて静かだ。カウンターに飾られた大輪の百合が、店員が行き来するときだけふわりと薫る。この街に越してきて5年半が経つが、ほかに移ろうという気にならない理由のひとつがこの店である。

読みさしにしていた芝木好子『女ひとり』を読み終えた。東京大空襲から終戦後の数年までの女性専用アパートに住んでいた女3人の友情、それぞれの恋愛と関係性の変遷を描いた小説。けっきょく男と結ばれてめでたし、となる結末は気に食わないといえばそうだったけれど、一概に結婚を女の幸せとせず、どう生きていくかという苦悩が丁寧に解きほぐされていたのがすごく好きだった。結婚をすることが幸福なのではなく、誰かと共にありたいと願えることに幸福の意味があるのだと、その形がたまたまこの作中の女にとって男と一緒になることだったに過ぎない、と思わせるような描き方だったから。終戦後という、まだ暗い世界で人が寄り添いあう姿を淡々と描いた筆致はだいぶ良かった。でも結末がああじゃなかったらもっと好きだったんだろうなあと思うのは、現代の感覚だろうが。

続けて三浦綾子『光あるうちに』を半分ほど読み進めた。神、愛、罪などをテーマに書かれたエッセイ集である。正直、読んだところまでではあまり目新しい話はなく、これくらいならとうに自分で考えている、とやや鼻白んだ気持ちになりながら読んでいた。あとけっこういろいろ気に入らない。「親は子どもがかわいくて当然」というような、同意しかねる内容があったりとか、「信仰を持てた私」の高みの見物的な、まだ神を知るに至らない人の愚かさを見下ろす(憐れむ)ような視線を感じることも気に食わない。そして何より神と個人の関係に焦点を当てすぎるあまり、社会のような、個人をとりまく外部要因への言及がないことにも違和感がある。中でも反発をおぼえたのは、信仰を持つことの良さを説明するうえで、重い障害を持つ人が、信仰を持つことで豊かに生きていると例示されることである。障害を障害たらしめるのは社会だし、誰もが豊かに生きることができる社会・構造・制度を望むべきだという私の立場からすると、信仰を持つことでその障害の苦しみを乗り越えることができると書いてしまうことは、障害をもつことを軽んじることになるように思う。まして、このエッセイ集は「信仰入門」として、他者に啓蒙する意図を持った文章である。その障害を持つ人が信仰を持てたことはたしかにその人にとって幸いかもしれない。だが、それを他者への啓蒙のネタとして「こんな人でさえ」みたいに書くことは、けっきょくその人を「かわいそうな人」という視線に晒すことをゆるしている。それが私にはゆるせない。信仰そのものはたしかに神と個人の間でかわされる関係であろうが、人が生きていくには、それだけで世界は完結しない。たぶん、私が宗教を志向しながら同時に反感を感じてしまう一端はここにある。

ただ、神中心ではなく、自分中心であることが原罪であると定義されていたのには膝を打った。学生時代の半分以上、信仰が身近にある場で生きてきて、信仰の持つ力を、祈る人の美しさを目の当たりにしていながらなお、私自身はキリスト教との、というよりも神との距離感をずっと測りかねている。キルケゴールを読むのも、聖書を読もうとする(もう数年近く挫折しているけど)のも、私の神への歩み寄りのつもりなのだが、いっこうに和解できる気がしない。なぜ応えてくれないのか、という子どもじみた悔しさが、けっきょく知りたいという気持ちに拍車をかける。私は信仰を持ちたいのではなく、知識欲から信仰を持つとはどういう状態であるのかを知りたいにすぎないし、そういううちは光は訪れないのだろうと思う。それはまさに自分を中心においた、原罪に甘んじた状態だから。原罪を罪として認め、神の方へのぼろうとする状態こそが信仰であるとキルケゴールも書いていたが、私はやはり神の方へのぼろうなどと思っていないのである。

スマホは家に置いてきたので、読んでいる途中にうかぶ思索はノートに書きつけていた。そうやってこまめに言葉を吐き出すのはキャッシュを消去して脳の動きを軽くするためで、読んだ内容に関することもあるし、集中が途切れて全然違うことが浮かんでくるときもある。ツイッターと違って、自分で書いた言葉しか存在せず、他者にまどわされたり気を取られたりしないのが白紙のいいところ。このところゆっくり自分の脳内にあるものを掬う時間がとれていなかったので、垢が落ちたようで気持ちが軽い。昨日友人と話したことを忘れたくなくて書き留めたりしているうちに5ページほど真っ黒にしていた。

先月は日記もふくめてまったくといっていいほど文章が書けずに焦っていたが、こうしてみるとちゃんと言葉はわたしの中に湧いているらしい。所詮は排泄行為と言ってしまえばそれまでだが、排泄は何よりも生きていることの証なので、自分はまだ死んでいないのだなと思うと安心する。