朝食綺譚

ミルクティーが好きだ。紅茶に牛乳を注ぐ瞬間が好きだ。深い紅色の透き通った液体の中に白い雲がもくもくと湧いて、あっという間に優しげな薄茶色になる。

たっぷりとバターを塗った食パンが好きだ。トースターで3分、焼けた表面にバターナイフを滑らせる瞬間の、ざりっとした音が好きだ。私の譲れないこだわりは、バターを塗ってからもう一度、1分だけトースターに入れること。一度焼いて、塗って、また焼く。二度手間じゃないのと母には不可解な表情をされたけれど、全然違うのだ。最初から塗って焼いても、こうはならない。塗る前に一度焼くのは、バターが全部中に染みこんでしまわないように。表面に焼き目を付けて鎧をまとわせておくのだ。そこに惜しまずにバターの塊をのっけていく。そうすると、塊はパンに触れたところから少しずつ溶けだして、つるつると表面を滑っていく。ここでバターを塗り広げることだってできるのだけど、私はそうしない。もう少しの辛抱だ。だってバターナイフで塗りたくってしまったら、せっかくのパンのふわふわが潰れてしまうでしょう。逸る気持ちを抑えて待つ1分。そしてトースターが鳴って、わくわくしながら扉を開ける。黄金色の液体になったバターがパンの縁から零れないように注意しなければならない。台所から食卓までの、歩数にして10歩もなかろうという距離さえもどかしい。どうにか腰を落ち着け、さぁいざ齧ろうと口元にその幸せの塊を近づけると、バターの香ばしい匂いがふわりと鼻をかすめる。まだ口に入れてもないのに、もう幸せだ。意を決してひとくち。かりっと小気味のいい音がする。その鎧を破ると、内側はもっちり、でもふわふわ。そこに表面のバターがじゅわりと絡みついて舌の上で混ざる。こんな幸せがあっていいのか。無心でその行為を繰り返して、気が付いたら私の手元には何も残らない。夢だったのかしら。

ミルクティーと、バターを塗った食パン。それだけの質素な朝食だ。それだけなのに、そこには浪漫がある。

食事をすること自体にはむしろ頓着しない方だと思う。頓着しないというのは、端的に言うと食べるのが面倒なのである。外出先であればコンビニに立ち寄って何かを購入するくらいの甲斐性はあるけれど、逆に言えばその程度だ。料理をするのも億劫だから、家にいたら逆に何も食べない。いくら空腹だろうと、だ。むしろ今、きちんとミルクティーを淹れて食パンを食べているだけで自分を褒めそやしたいくらいである。偉い、私ちゃんと生きようとしてる。すごいすごい。

でも、決して食を蔑ろにしているわけではない。食べることは好きだ。

私は日頃から死にたいとしょっちゅう口にする人間で、それは大抵の場合冗談ではない。死ぬ瞬間への恐怖さえなければ今にでも死んでしまいたいくらいなのだが、だからこそ、生に対して強烈な憧れがある。矛盾しているようだけど、なんてことはない、自分にないものを求めるというだけの話だ。自分の生を肯定できないから、生を美しくみせるものたちに惹かれる。文学も、自然科学も、絵画も、演劇も、徹底的に生を肯定する営みだと思う。生きていなければ存在しえないものたち。だから好きだ。そして食もまた然りなのである。