190120

打上花火が好きだ。皆が同じように空を見上げて、華が咲くたびにそこかしこから歓声があがる。きっとこれから生きているあいだには二度と出会うことがないかもしれない人たちと、その刹那だけは同じものを見て、同じものに心を躍らせる。見ず知らずの人たちと、おたがいの人生を共有するみたいな、道が交差するみたいな、そういう瞬間が好きだ。だから満開の桜とか、月食とか、流星群も好きで、同じ理由でコンサートも好きだ。

もともと、過去に対する執着は人一倍強いほうだと思う。忘却に対する恐怖、と言い換えてもいい。自分がたしかに実体としてここに存在していることを信用できないから、今この瞬間に存在する自分を、ただ存在しているというだけで肯定することができないから、過去になりゆく瞬間にしがみつこうとする。きらきらの過去をつなぎとめて、それらで構成される私を認めようとする。私にとって書くことが存在証明たりうるのはそういうわけだ。言葉に残せなかった感情も、記憶も、私にとっては存在していなかったことと同じに思える。全部をこの体に抱え込むことなんてできないのに、そう願うのはもはや傲慢なのに、それでも忘れていくことが怖い。失われていくものが怖い。自分が欠けていくような気がして怖い。だから記録することに躍起になる。それは確かに好きでやっていることでもあるけれど、半ば強迫的な側面もある。

コンサートの記録を残すようになったのも、その延長にある行為だ。彼らが愛おしくて美しくてかっこよくて可愛らしい瞬間を、その瞬間に自分の感情が動いたことを、忘れたくなかった。そうやって続けるうちに、いろんな人の目に触れるようになった。それも嬉しかった。それは、打上花火と同じだった。彼らを愛する人たちと密やかな感情の共有をできたような気分になれた。

だけど、拡散された先で、自分の意図とは離れた受け止められ方をしているのも幾度か目にした。そのつもりがなかったなんてのは後出しじゃんけんだと思ったから、そのたびに、自分の言葉が誰かにとって不愉快なものになり得ることに落ち込んだ。私の言葉を目にする人たちが増えるにつれて気を付けようと意識はしていたつもりだったけど、それでも考えが及ばないことはあるのは、たぶん本当はどうしようもないのもわかっている。受け止める人の思考を支配することはできない。八方美人が悪口たりうるのは、八方しか美人でいられないからだ。北北東にいる人にまで良い顔をすることはできない。

それでも、傷付けたくないからとかそんな高尚な理由ではなく、自分が罪悪感を背負いたくないから、誰かの目に触れることを前提にした自分の言葉で誰かを不愉快にさせるかもしれないことに鷹揚でいられるほど強くないから、自分の意思を、感情を含んだ言葉を、簡単に拡散される形で存在させることに躊躇いを覚えるようになった。私が紡ぐ言葉なのに、その中で私の存在は小さくなっていった。違和感は少しずつ膨らんで、だけどそれに抗うだけの強さもなくて、なかったことにした。そうやって思考を、感情を、記憶を断片化して外在化させる行為は加速していった。私はひとりしかいないはずなのに、外から見える私は切り刻まれていった。ニーチェが嫌ったところの、血の通わない言葉ばかり零すようになった。


歌うときに歌のことだけ考えている、と私に教えてくれた彼は、やっぱりあの日も、歌のことだけを見ていた。観客も、メンバーも、バックダンサーも、そこにいるようで、歌っている瞬間だけは彼の目には映っていなかった。私が好きになった彼は、ずうっと変わらない。いつだって簡単なことみたいに歌への揺るぎない愛を惜しげもなく晒してみせる。彼はたしかに彼のために歌っていて、それがどうしようもなく悔しかった。私が、唯一誇れるものに対してさえも真摯さを貫けずにぐちゃぐちゃとしている間にも、彼はまっすぐに歌だけを見ていたのだ。情けなくて、ばかばかしくなった。

 

誰のための言葉だ、私のための言葉だ。私の感情も、思考も、私だけのものだ。私だけが愛せる私だけの言葉を紡げばいい。