言葉を刻む

感染症の流行をきっかけに活動休止してしまったバンドのことを、脈絡もなく思い出した。アカウントを覗きに行ったら、CDを購入したというファンのつぶやきを引用した半年前の投稿が最後だった。知る人ぞ知るという感じのバンドだから、同じものを好きというだけで妙な親近感が湧く。それでそのファンのアカウントに飛んでみたら、数時間前に「久しぶりにエノコログサを振りながら歩いていますご機嫌です」とつぶやいていて、いい具合に力の抜けた言葉選びにしびれてしまった。短歌になっているのは意図的だろうか。こういう生活の匂いをまとった詩歌のことがほんとうに好きだ。最近めっきり短歌集も読んでいない。読みたい詩集も、短歌集もたくさんある。

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念願かなって、とうとう体に墨を彫りこんだ。五年近く前からずっとやると言い続けて、ようやくだ。ルーズリーフに描いていった下手くそなラフイメージを見せて、いくつか問いにこたえただけで、担当してくれた彫師さんは「じゃあちょっと描いてみますね」とものの十数分できれいなデザイン画を仕上げてくれた。ひと目見て、思わず「かわいい」と声が漏れた。直すところなんかなくて、これでお願いしますと即答した。

施術もあっという間だった。三十分ほどだろうか。心配していた痛みは、さほどのものではなかった。慣れてしまえば施術中に眠れるだろう。好きな人は好きな痛みだと思います、と話していた友人の言葉の意味がよくわかった。これは癖になる。はじめる前にデザインを体に転写して確認しているから、どんなふうになるかはおおよそわかっているものの、彫られている間はどうなっているのかわからない。痛みの震源地がすこしずつ移動してゆくので進んでいることがわかるだけだ。ただ、彫師さんの手付きは淀みなくて、不安は感じなかった。横たわっているあいだ、ふわふわと考えごとをしているうちに、アメリカに住んでいた子ども時代、近所のお祭りや友だちの誕生日パーティーなんかで、かならずフェイスペイントができるブースがあったことをふと思い出した。あれに似ている。きれいな模様で体を飾ることに気分が踊るのは、六歳の頃から変わっていないらしい。鏡の前でできあがったものを見て、ふたたび「かわいい」という言葉が口をついて出た。うれしくって、帰宅してからも十数分おきにシャツをめくっては自分の腹を見ている。

終わってしまえば、数年間何をためらっていたのだろうと思うほどにあっけない体験だった。それでも、数年ものあいだ決心がつかずにいたものをとうとう実行に移せたのだということに達成感がある。それだけの時間を経ても、自分がやりたいという気持ちをなくさずにいられたことも嬉しい。体に刻みつけた言葉は、この数年自分のおまもりのように幾度も唱えてきたものだ。 すべてを終わらせたくなったとき、すべてが終わってしまったように感じたとき、自分を奮い立たせるための、生きぬくための言葉だった。それが今日からは、文字どおり私とともにある。けして消えないものとして、ここにある。心強く思う。I'm better than yesterday.  

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ピーマンとしらすをごま油とレモン汁とナンプラーと胡椒で和えたものと、茄子とピーマンの味噌炒めを作った。和え物のほうは今日は食べずに冷蔵庫行き。作り置きのゴーヤのピクルスと、残り物の肉じゃがで夕食にした。肉じゃがは油っぽくなってしまってあまり美味しくなかった。包丁の刃がまた鈍ってきている。近いうちに研がないとならない。

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他人の日記を読むのが好きだ。自分とは違う一日を生きた人間がいるということは、ひるがえって自分が他人とは違う人間であることの証明になるから。それに、それぞれの生き様を知ることはおもしろい。見知らぬ人の日記は、アニメや映画と同じように、遠くの物語として楽しむことができる。ところが、自分の日記というのは、わかりきったことしか書かないのでおもしろくない。その日の記録などというのは、いわば垢のようなものである。一日の終わりに書くことで、その日の垢をこそげ落とす。それはマイナスをゼロに戻す作業にすぎない。最近の自分の文章がつまらなくてどうにかなりそうだったのは、そういうことではないかと思いはじめた。だから、日付に紐づいた日記という形ではなく、短い随筆の位置づけで書いてみようと思い立って、題をつける形式に戻した。書く中身はそう変わらないだろうが、自分の中でより創作に近づけたあつかいにしてみるという試みである。生産性至上主義にとらわれた憐れな願いであることを承知で、自分のことを、まだ何かを生み出せる、ゼロをプラスにできる人間であると思っていたいから。