陽光受ける鏡であれ

夜、通常上映のムビナナDay2。もう何度目だっけな。数をこなせば偉いわけでもないし、そんな義務を自分に課すつもりはない。そうじゃなくて、何度目かもわからなくなるくらいに観て、それでもまだ観たくて気持ちがうずいている、そういう情熱が自分の中になお息づいていることが嬉しくてたまらない。好きで満たされているときの自分が好き。悪意とか邪気とか入り込む隙がないくらい、光に満ちた自分でいられる気がする。その光をもたらすのはステージの上の彼らで、やっぱりアイドルってほんとうに太陽。

レイトショーにもかかわらず席はそれなりに埋まっていた。内容はとっくに知っているのに、この日はなんだか琴線に触れるものが多かった気がする。応援上映もほんとうのコンサートみたいでそれはそれで楽しいけど、楽しさが勝ってしまう分、自分の感情と向き合いながら観るのはむずかしい。通常上映は静かだから、思いきり味わって噛みしめることができる。先日友人たちと一緒に観て、いろいろ感想を共有しあったときの友人たちの言葉が、観ている間に思い返されて、それはもうおもしろいくらい泣けた。

八乙女楽さんを好きな友人は、彼のことを「レールから外れることではなく、親から与えられたレールをただ走らされるのでもなく、そのレールを自ら誇り高く走り抜ける人」と呼んでいて、私はそれがすごく好きだったし、"Crescent Rise" のときにそれを思い出したら泣いてしまった。TRIGGERの誇り高さは、彼らがあの場にいることを選んでいるということに、彼ら自身がきわめて自覚的であることによって作り出されるんだと思うし、私はずっとそれがかっこよくて魅せられ続けている。もちろん、あの16人全員がそれぞれアイドルであり続けることを能動的に選び取ってこそのこの作品、このライブだけど、TRIGGERは3人で経験してきたものの重さゆえに、3人でいるということへの執念をより感じる。彼らのパフォーマンスで想起される感情は、畏敬というのが一番近い。雄大な山とか、満天の星空とか、でっかくて吸い込まれそうな絵画とか、そういうとてつもないものを目の前にした時に、自分の抱えているものがくだらない塵みたいに吹き飛ばされて洗い流されるような、そういう感覚。圧倒されたい、呼吸を奪ってほしい、そういう欲求を持つ人間を、完璧に満たしてくれるのがTRIGGERというグループで、ほかのグループの人を好きでいながら、私がグループとしてはTRIGGERをどこよりもずっと好きでいるのは、たぶんそういう理由だ。ちなみに、今回のムビナナがほぼIDOLiSH7初見の別の友人は、ŹOOĻが個の集合で成り立っているのに対して、TRIGGERは3人でひとつって感じがする、と言っていた。聞いたときにも唸ったが、それを念頭においてパフォーマンスを観て、あらためて的確な表現だと思った(それを初見で読み取れる友人もすごいし、それを初見の人に読み取らせる作りになっているのもすごい)。彼らのそういう不可分性、他者との結びつきの強さに危うげがない、お互いに対して猜疑心とか入り込む余地のなさそうなところがほんとうに好きだし、羨ましくて、かっこいいと思う。人と人はこんなにも信頼を太く育てることができるんだ、と私にはきっと手の届かないものを見上げている。

同じ日に一緒に見に行ったもうひとりの友人は、アイドルには3種類いると思う、という話をしていた。前を歩いてひっぱってくれる人たち、隣を一緒に並んで歩いてくれる人たち、後ろから背中を押してくれる人たち。TRIGGERは間違いなく道を切り開いて先を照らしてくれる人たちだが、時にその遠さはさみしい。IDOLiSH7はならんでくれるタイプだと思うし、Re:valeはたぶんそのどれもを使い分けられる。ŹOOĻは、どちらかといえばふだんはその牙を向くような獰猛さで奮い立たせてくれる、やや乱暴に背中を押してくれるタイプだろうか。だが、"Stronger & Stronger"の彼らはまた少し違う。

"NiGHTFALL"のIDOLiSH7が夜空の星だとしたら、そのあとに続く"Stronger & Stronger"のŹOOĻは地上の星だ、と言ったのもやはり友人だ。それを思い出して、立ち並ぶビル群に向かって歌う彼らを見ながら、やっぱりまた泣いた。私は自分のことを飛べない人間だと思っていて、ずっと空の太陽や月を見上げて、照らされた世界で土を踏みしめていることしかできない。「地上のまなざし」という言葉を日記に冠しているのもそこからだ。だから、友人がŹOOĻを地上の星と呼んだことを思い出した時、トウマくんが、彼らが、私と同じ場所にいるんだということが嬉しくてたまらなくなってしまったのだった。

極めつけに散々泣いたのは、"Pieces of The World"の「砂漠になったオアシスもいつか戻れる  澄んだ水は隠れただけ」という詞だった。この曲は聴くたびに胸に響く部分が変わる不思議な曲だけど、この日ぽーんと胸のど真ん中に飛び込んできたのがこの言葉だった。正直、無防備だったから、めちゃくちゃに食らって揺さぶられた。この頃まさに自分が水気を失ってひび割れた荒れ地に成り果てたような気がしていたから、それに正面から希望を提示されて受け止めきれずに、もう息の仕方を忘れるくらいに泣いた。みずみずしい私に戻れると思っていいんだろうか。これはたぶん、優しくなりたいってのと同じ話だ。やわらかい私。繊細な光を放つような文章を書けた私。ぜんぶもう取り返せない過去だと思ってるけど、また自分を好きになれるかもしれないんだろうか。

トウマくんはこの日もめちゃくちゃにかっこよかった。初めて見た時から目を奪われていたけど、まだ飽きたりる気配がない。いつも、毎回ずっと目で追ってるのに、そのたびに新鮮に魅せられてどんどん好きが深まっていくような気がしている。

PoTWのことを聴くたびに胸に響く部分が変わる、とさっき言ったけど、ずっと変わらずに好きな部分もある。「此処にあった眩しさは希望 春夏秋冬翳らぬ太陽」だ。眩しさも希望も翳らぬ太陽も、私にとってのアイドルをあらわす言葉だけど、同時にペンライトを祈りの光として掲げるファンも、きっとステージの上の彼らからしたらそう見えるんじゃないかなと思う……というか、そうだったらいいと思う。太陽になることはできないかもしれないけど、陽光をはねかえして彼らの輝きを保つ鏡のひとつであれたらいい。