ミュージカル『憂国のモリアーティ』Op.5 最後の事件 鑑賞後記

※モリミュOp.5のネタバレがあります

 

発表から半年間、待ちに待った舞台の初日を迎えた。24日、25日と観たあとで、今感じているものを忘れたくなくて、これを書いている。

『憂国のモリアーティ』そのものが階級制度の解体をテーマとする、きわめて政治的な革命の物語で、モリミュはその「社会」を生々しく真摯に表現しようとしてきた舞台だと思っている。その中でも、なおのこと真向から社会の在り方を論じたのがOp.4だったと思う。それに対して、どちらかといえば各人の内的な世界に光の当たる作りになっていて、ひとつひとつの感情が、これでもかというほどに克明に提示されるのが、今回のOp.5だ。舞台のエンタメ性のバランス感覚でいうと、たぶん前作の方が個人的には好みではあるのだけど、これまで徹底して社会の話をしてきたからこそ、社会から逃れえぬひとりひとりの心情に説得力が増す。社会と内的な精神世界を二項対立のようにあつかってしまったけれど、本来それらは不可分だ。彼らも、私たちも、分かちがたく社会に組み込まれていることのままならなさ。個人の関係性の話だけに集約させるのではなく、「社会で生きる人間同士」の話を描く意志を感じた舞台だったし、それがものすごく好きだ。

前回、Op.4を見たときに私は「平等を重んじ、差別と暴力に抗いたいと願うひとりのフェミニストとして、不均衡な権力勾配を打開し、人々の権利を獲得しようとする闘争、革命の意志を描くこの作品に惹かれたのは、必然だった」と書いたけど、昨日、今日と観て、自分がこの作品に惹きつけられてやまない理由をもうひとつ見つけた。私がモリミュを好きなのは、命の重みを軽んじないからだ。命を軽んじない、ではなく、「命の重みを」軽んじない。生きているのが正しくて、自らの命を絶ちたいと望むことは、間違いで、異常で、矯正されるべきものだと無邪気に信じている人は多い。この数年、希死念慮と付かず離れず付き合ってきた私にとっては、その価値観は息苦しいものだ。だってそれは、強者の論理だから。

いつだか日記に書きなぐったことがある。

生きてることってそんなに大事?どうして生きていてほしいの?他者の「生きてほしい」は、その人の「生きたくない」よりも大事で優先されるべきものだって、つまりそういう理屈になっちゃうじゃん。それが適用され続けるのって苦しすぎる。しばりつけないでくれ。いつだって死なせてくれよ。

それへのアンサーだ、と思った。フレッドやルイスがウィリアムを死なせまいとする一方で、モランやアルバートはウィリアムの死への願望をみとめ、それを叶えようとする。「死んではいけない」と「死んでもいい」を同時に提示すること。死にたいウィリアムと、死なせたくないルイスたちのエゴ、どっちが勝つかって話だな、とモランが言うように、「生きてほしい」と「生きたくない」を等価のエゴとして扱うこと。それはすなわちウィリアムが「人を裁く権利は人にはない」と語ることに通ずるだろうとも思う。命が肉体には重すぎるがゆえに、耐えきれずにウィリアムが死を望むことを、善悪や正誤で断罪しようとせずに、ただ個人のエゴとして描くその誠実さが、好きだ。

この物語は、「生きていればいつか幸福になれる」という楽観的な、思考停止の生命賛歌ではない。マイクロフトはアルバートに、ジョンはシャーロックに、シャーロックはウィリアムに、生きて罪を償え、苦しみ続けろ、もっとも苦しい茨の道を選べ、という。2幕のシャーロックの歌唱に「人は脆く儚いもの 生きるよすがなどうたかたの幻」みたいな詞もある。生きることが重く、苦しいことだと認めて、そのうえでその苦しみをともに背負う覚悟を持って初めて、「生きてほしい」「死ぬな」というエゴは愛情と形容するに足るものになる。死んでほしくないと願うことは、その人の命を引き受ける覚悟を持つことでもある。マイクロフトがアルバートに「ともに惑い続けよう」というように、シャーロックがウィリアムに「迷おう」というように、あるいは貴族と庶民が熱風にあおられ、火傷や怪我を負いながら協力して火を消し止めるように、人が人と共にあるということは、世界の痛みを分かち合うことである。観ながらずっとそのことを考えていた。

この先もまだ何度か見るので、また追記します。