2024/1/1-7

2024. 1. 1 (Mon)

昼:年越した蕎麦(海老天、ほうれん草、人参、鶏肉、山菜)
おやつ:モンブランのロールケーキ、コーヒー
夜:煮物、栗きんとん、なます、蒲鉾、伊達巻
夜食:チーズ、ワイン

 二日酔いで起床。すっかり酔っ払って大晦日は年越し蕎麦を食べずに眠ってしまったので、昼食に食べた。近くの酒屋で見つけて買っておいたちょっとレアなクラフトビールで飲酒初め。
 午後は年末にスーパーで安くなっていた豚バラのブロック肉で角煮を作りながら、『ズートピア』と、そのスピンオフアニメの『ズートピア+』を6話観た。ニックの表情がすごくよかった。アニメのほうは、やりたいことを詰め込んだ感じで愉快だった。ただ、前々から正月はDisney+の配信作品をいろいろ観ようと話していたとはいえ、ディズニーがイスラエルへの支援を表明していることを思うと、加入したことには後悔している。来月には解約する。
 観ているときに地震があった。ゆらゆらと酔いそうな揺れが長く続いた。テレビをつけたら津波警報が出ていて、アナウンサーが切実に避難を呼びかけていた。もう13年も経つのに、3.11のときのことが思い出されて苦しくなって、連れに消してもらうように頼んで、しばらくは落ち込んでいた。
 夕食を食べたあとはボードゲーム『Mice & Mystics』をプレイしていた。1章分を進めるのにもけっこうな時間がかかるので、こういうゆっくりできる休日にしか遊べなくて、前回やったのはもう半年以上前だった。内容を思い出しながら2回同じラウンドをプレイしたけど、けっきょくぎりぎり勝てなかった。ルールを忘れないうちにもう一度やりたい。

2024. 1. 2 (Tue)

ブランチ:トースト、モンブランロールケーキ
午後:たたき牛蒡、生の百合根の白味噌和え、手綱こんにゃく、なます、伊達巻、黒豆、ローストビーフ、鴨ロースト、煮物
夜:葱と鮪の鍋、〆で半田素麺

 箱根駅伝の4区の後半あたりで布団から出て、ブランチを食べる。連れのアイディアで、トーストに大晦日に作ったアヒージョの残りのオリーブオイルを塗って食べたらとてもおいしかった。すっかり火が通ってやわらかくなったにんにくが、まるでペーストみたいに伸びて感動的だった。
 午後は実家に帰った。連れも一緒。作った煮物と角煮を年賀に持参したら、「あなたが料理を作ってくるなんて」とひとしきりからかわれたが、まあ喜んでいたんだろう。もともと料理好きの母だが、正月というのにくわえて、来客がいることもあって例年よりもいろいろ気合が入っていた。この人の作る食事に育てられたので当然といえば当然だが、いつ食べても母の料理はおいしい。ただ、煮物だけは自分で作ったほうが好みだった。そのことが嬉しくもあり、さみしくもある。午後3時頃に食べ始めて、喋りながら飲みながらだらだらと食べていたら、暗くなる頃にはすっかり酔っ払って満腹になっていた。
 絵本の蔵書を連れに見せたり、うたた寝をしたり、録画しておいた『魔改造の夜』を観たりしながら、午後9時すぎに鍋を食べた。めっちゃくちゃ美味しかったけど、あまりに満腹で、しばらく動けなかった。
 私は実家に一泊するので、午後10時過ぎに連れを駅まで送って別れた。

2024. 1. 3 (Wed)

朝:餅、煮物の残り
おやつ:コロッケパン、チョココロネ
夜:鰤の照り焼き、角煮、煮物、なます、蒲鉾、ビール

 実家にて、箱根駅伝の7区の後半あたりで起床。前夜のご馳走を消化しきれておらず、朝は食欲がない。箱根駅伝のゴールを見届ける。今年は駒澤が勝つのかなと思ったけど、あいかわらず青学が強すぎた。毎年言っているが、スポーツ観戦に興味がないわりに、箱根駅伝だけは好きだ。馴染みのある場所を、人間がびゅんびゅん走っていくのを観ているのは気持ちがいい。人間が、身一つでこんなにも遠くに行けるのを眺めていると、単純にわくわくする。自由な生き物だ、と思う。
 昼過ぎ、家を出て祖母の暮らす施設に車で向かう。今年こそは運転をできるようになりたくて、親に頼み込んで運転させてもらった。最後に運転したのは4年前。アクセルとブレーキの位置さえ忘れていて早々に諦めが心をよぎったけど、横で父に口出ししてもらいながら、なんとか往復3時間弱を走りきった。母は後部座席で終始怖がっていたが、高速にも乗れたし、後半はだいぶ感覚を取り戻せたような気がする。この感覚を忘れないうちに次の機会を作りたいものだ。
 祖母はあまり調子がよくなさそうだった。ここ数年、顔を合わせるたびに結婚のことを尋ねられて、そのたびにはぐらかしてきたが、とうとう観念して連れと同居していることを話したら、たいそう喜ばれてしまった。婚姻届を出すつもりがないことも伝えたら、ふしぎそうな顔はされたものの、それは彼女にとって大した問題ではないらしかった。その日あったことを話せる相手が家にいるっていうのはいいものだから、と言われた。祖母の中で祖父との生活がそういうふうに記憶されていることを微笑ましくも思ったし、連れの存在にそういう嬉しさを感じているのも事実だけれど、後味の悪さは残る。婚姻届を出さないという小さな抵抗をしてみたところで、結果だけ見れば、大筋では「伝統的な」家族観に収斂されてしまった。連れが男で、私が女だったばかりに。同性と一緒に生きたかもしれない、あるいは誰とも一緒に生きなかったかもしれない、分岐の先にあったはずの自分が存在しないことにされる違和感。
 午後7時ごろに自宅に戻った。さっさと入浴をすませて、ゆっくり日記でも書きながら連れの帰りを待とうと考えていたのに、インターネットに溢れる悪意に毒されて動けなくなってしまった。地震の直後で、デマや差別的な投稿がいつもに増してそこらじゅうに溢れかえっている。人間には悪意が存在するということを思い知るだけで身がすくむ。安全なところにいる人間ができるせめてものこととして、デマや差別投稿を通報しようと思うのだけれど、探しに行くだけで削られる。同じ人間であることを信じたくない。私にだって悪意はあるけど、それを拒んでいたい。人間って、もっと良い生き物になれたはずじゃないのか。美しいものを生み出せること、善くあろうとすることだけが人間を肯定しうる理由だと思っているから、そんな低俗なものに身をやつしてたまるかよ、と思う。落ち込む。誰かを傷つけ貶めることに愉悦をおぼえるのが人間だというなら、私は人間であることをやめてしまいたい。
 自分のためでも、誰かのためでもない、何もできない時間。何もできない時間があることは必ずしもいけないことではないけど、悪意ある者たちに奪われるのはまっぴらだ。濁流に曝されて呆然と過ごすよりも、インターネットから離れて、思考も感情も自分で手懐けられる環境に身を置いておくほうが、カウンターアクションにつなげられる余力は残せるのだろうと思う。ただ、そうしてしまったら、そのアクションのトリガーを誰かに頼らなくてはいけなくなる。情報が入ってこない世界は穏やかで楽で、自分がその心地の良い凪を振り払ってまで動こうとするような殊勝な人間ではないことを、私はよく知っている。自分が楽になるためだけに逃げることになるとわかっているなら、その選択はやはりすべきではないだろうと感じる。
 食傷しながら聖書を手にとって適当に開いたら、詩篇37だった。

悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。主を信頼し、善をおこなえ。

 主と呼ばれる存在がいるのだとして、私は(まだ)それが信頼に足るものだとは思えないが、すくなくとも真っ先に視線の引き寄せられたこの一節に、見透かされたような気持ちになったことはたしかだった。今年はもうすこし聖書を読んでみたい。
 母から醤油漬けの鰤の切り身をもらったので、連れが帰宅してから焼いた。連れは思ったよりも鰤が好きらしく大喜びしていた。ありもので満腹。大晦日にがんばっていろいろ作っておいた甲斐がある。
 食後は『葬送のフリーレン』の13話と14話を観た。14話はぼろぼろ泣いてしまった。

2024. 1. 4 (Thu)

夜:常夜鍋、煮物、なます、日本酒

 午後、幾度目かのシーシャ屋に友人たち4人と行く。私が年末に逃げ回っていたせいで、会うのは久しぶりに感じる。なんだかもっといろいろ話したかったし伝えたかったし謝りたかったはずなのに、うまく喋れなかった(ここで書いて満足するなよ、と自戒)。でも、今年最初に会う友だちがこの人たちで良かったし、この人たち以外はありえなかったと思う。
 煙を吸いながらぽつぽつといろんな話をした。フレーバーはそれぞれアイナナの推しをイメージして調合してもらったもので、店員さんにどんなキャラクターなのかを説明しなくてはならないのだが、それがこそばゆかった。自分が好きな人のどこを取り上げるかで味が変わるのがおもしろい。トウマくんのことを「攻撃的で獰猛なパフォーマンスをするかっこいい人だけど、人懐っこくて情に厚くて、自分が愛されていることに鈍感な人」と伝えたら、スパイシーさのなかにミルクのやわらかさが混じった香りになって、なんて可愛い人なのだろうと愛おしくなってしまった。去年から何度かやっているが、何度やっても楽しい遊びである。
 友人の提案で、言葉を崩そうということになった。その友人とはそろそろ6年近い間柄だし、ほかのふたりとも去年散々遊んでいながらずっと丁寧語でやってきたので、かえって気恥ずかしさがある。ただ、別の友人と知り合ったばかりの頃に「会話の内容も変わると思うんだよね」と言われて言葉を崩したら、事実いろいろと話せることが変わった実感があったので、この愛する友人たちとの関係もどう変化してゆくのか楽しみだ。
 名残惜しさはありつつ、4時間ほどをゆったりと過ごして夕方に別れた。連れの帰宅を待っている間に、去年のふりかえりと今年の目標をまとめてちょっとすっきり。夕方は、これまた昨日母に持たされた豚肉で常夜鍋。大家さんからおすそわけでいただいた大根をおろしにしたら、甘くてとても美味しかった。「毎日食べても飽きない」というところに由来する名称だとも言われているが、ほんとうに毎日食べてもいいなあと思う。連れにはかなり早い頃から私の好物のひとつとして認識されているらしい。日本酒がぐんぐん進んだ。

2024. 1. 5 (Fri)

昼:うどん、なます、栗きんとん、伊達巻
夜:近所のビストロ

 一応仕事始めだが、すぐにまた3連休なので、休み気分は抜けない。というか、抜きたくない。年末にばたばたしていた件は落着したらしいが、これからどうするのかよくわからないまま時間がすぎた。これは休暇前からだが、今やっている仕事はなんだか雲をつかむようで気持ち悪い。人間関係を読み取ることも、他者の思惑を察することも、何が問題で話が進んでいないのかを解きほぐして言語化するのも得意なほうだと思っていたのだが、その技術をうまく使いこなせていなくて、ずっと空転している感覚がある。初めの方こそ、領域の専門知識がないせいかと思っていたのだが、どうやらそこではなさそう。ずっと何をすべきかが見えていなくて、リーダーに任せっきりになってしまっているのが落ち着かない。自分で考えて動きたいのに、よくわからない何かに足をとられているようで嫌な感じだ。
 昼は、昨日の常夜鍋の残りの汁にうどんを入れて、大根の葉のふりかけとすりだねを入れて食べた。ピリ辛でかなり良い感じだった。連れの上がりが早かったので、夜は近所のビストロに行った。初めて行く店。ほんとうは新しくできたワインバーに行くつもりだったのだが、店の場所を間違えて隣にあったビストロに入ってしまったという偶発的な訪問だ。
 今日が年始最初の営業日だったそうで、店内は私たちのほかは常連客ばかりだった。みんな顔見知りのようで、はじめの方はだいぶ肩身の狭い思いをしたが、そのうちの一人が差し入れで持ってきた希少なワインをその場の全員にごちそうしてくれて、そこからはすこし会話に入りやすくなった。生産量がすくなく、市場に出回っていないものを独自の伝手で入手したものらしい。無学なりにも、味わいに角がなくてまろやかで、ものすごく美味しかったのだが、あとから値段を教えてもらって目玉が飛び出るかと思った。たぶん、同じレベルのワインを飲むことは死ぬまでにもう二度とないだろう。差し入れたのは身なりの良い人で、かなりワインに凝っている様子が話の端々からうかがえた。うんちくを語りたくてしょうがないんだろうなという感じだったけど、愛想がよくて、新顔の私たちも気遣ってくれたので嫌な感じはしなかった。
 間違えて迷い込んだ店で思いがけない体験をして、ほろ酔いだったのも手伝ってなんだか夢だったみたいだと思う。常連に愛されているし、ワインも料理も美味しくて良いお店だとは思ったけど、しょっちゅう通うにはややお財布にきびしいのと、さすがに肩身が狭かったので、時間を置いてもうすこし客のすくない日に行ってみたいかも。飲みに行くときに候補になる店が増えたのは嬉しい。この街にはめずらしく、だいぶ夜遅くまでやっているようだし。

2024. 1. 6 (Sat)

昼:ペペロンチーノ(連れ作)、なます

 もったいなくてずっととっておいた正月のアヒージョに使ったオリーブオイルの残りを、連れがパスタにアレンジしてくれた。大根の葉のふりかけと刻んだ椎茸を足して、ペペロンチーノ風。なますがピクルス的な箸休めになっていたのも良い組み合わせだった。
 夜は30歳という節目を祝しての(?)10年ぶりの高校の同窓会。誰が来るのかも知らなくて、申し込んだものの直前まで億劫で行きたい気持ちになれずにいたが、可愛い洋服を着ておしゃれをしたいという気持ちが勝って出かけた。祖母から譲ってもらった仕立ての良いワンピースに、お気に入りの装身具ブランドのピアスとリングを合わせたら、自画自賛したい仕上がりになった。
 前回の同窓会ははたちになった歳で、成人式パーティーも兼ねていた。当時私は主幹事を務めて、もう二度とこんなことはやりたくないと思ったくらい大変だったのだが、あのときやっていなければ今回の同窓会もなかったかもしれないと思うと、やってよかったのかもしれないと思えた。そう思いたくなるほどには、この日は良い会だった。
 学年仲が良い印象だった1つ上や2つ上の代と比較すると、自分たちは比較的愛校心が薄い代だと思っていたのだが、蓋を開けてみたら学年の7割弱という、驚くべき参加率だった。学生当時にはこういう場に参加することを好まなかった人たちの顔も多くて驚きもひとしおだった。ただ、みんな垢抜けてはいるものの、案外学生時代から変わっておらず、懐かしさはそこまで感じなかった。10年って思っていたより短いのかもしれない。
 はじめこそぎこちなく、名札をちら見して記憶にある名前が正しいかを確認しながらおっかなびっくり会話する感じだったが、次第に学生時代に戻った感じになっていってよかった。恋愛とか結婚の話に花が咲くのはまあ覚悟していたところがあったけど、昔よりみんなおとなになって、あんまりねちっこさを感じなくてすんだのにもほっとした。最初は行くつもりのなかった二次会にもけっきょく参加することにしたし、私のほかにも同じような人がたくさんいた。けっきょく終電が近くなるまでいろんな人と話し込んだ(一次会で帰るつもりだと宣言した私に、どうせそんなこと言ってあなたは二次会も絶対行くよと言い当てた連れはさすがだ)。
 けっきょく二次会は学生時代に仲の良かった顔ぶれで次第に固まって話す感じになり、それはそれで楽しかったけれど、一次会から数えて7時間近くあったにもかかわらず、もっと話したかった相手がたくさんいる気がして惜しい気持ちも残る。とくに担任の教員に話しかけにいけなかったのは後悔している。忘れられてるかも、と思ったらなんとなく踏み出せなかったのだ。
 ずっと死ぬことを考えていたから忘れられようと思っていたし、自分のいないところでみんなが仲良くしていると思って卑屈になって、みずから遠ざけるような真似をしてきたけれど、愚かだったのかもと素直に思えた日だった。もっと会いたい人に会いたいって言っていいんだろうな。自分が思ったよりも忘れられていなかったことが嬉しかった。ひそかに学年のアイドル的存在だったクラスメイトに、「きみがインスタ更新してると嬉しくなるよ」と言われてしまったので、もうすこし更新頻度をあげようかとうっかり思ってしまった。安直。

2024. 1. 7 (Sun)

※映画『パーフェクト・デイズ』の内容に言及しています

昼:シーフードドリア、クラブハウスサンド
夜:町中華でちょい飲み→残り物の食材で炒飯とお雑煮

 連れの休みがめずらしくかぶった。年末年始でイベントごとが多かったから家でゆっくり過ごそうかと思っていたのだが、会期終了が間もないSOMPO美術館の『ゴッホと静物画 - 伝統から革新へ』展に行くことにした。連れが誕生日に贈ってくれたモレスキンのノートブックセットの表紙がゴッホの『花咲くアーモンドの木の枝』だったからだ。
 それ以外だと『ひまわり』と『星月夜』くらいしか知らず、ゴッホの絵を丹念に観たのはこれが初めてのことだった。その2作品の色づかいもあって、なんとなく黄色と青の人というイメージがあったので、艶やかな赤や穏やかなピンクを使った作品には意外さもおぼえて楽しかった。全然どんな絵を描く人だか知らなかった。
 ゴッホの作品だけではなく、彼に影響を与えたり同時代を築いた様々な画家の作品も一緒に展示されていて、ゴッホの絵が生まれた文脈が見える構成になっていたのもよかった。感情的な印象が強い人だと思っていたが、他の画家の絵を冷静な目で批評して自分の作品の方向性付けの参考にしていたりと、戦略的で堅実な一面が見えておもしろいねと連れと話していた。
 館内は混み合っていたものの、それなりにゆっくり観ることができて嬉しかった。展示の目玉作品でもあった『アイリス』と、美術館の顔ともいうべき『ひまわり』の周りはさすがにちょっと窮屈だったけれど。ゴッホの作品も見ごたえがあったのだが、ルノワールの『アネモネ』と、リヒャルト・ロラン・ホルストの『「ファン・ゴッホ展」図録』が特に印象に残っている。あとジョージ・ダンロップ・レスリーの『太陽と月の花』とか、モネの『グラジオラス』も美しかった。ゴッホの中では『靴』と、『皿とタマネギのある静物』、『赤と白の花をいけた花瓶』が好きだった。
 2時間半ほどかけて展示を見終えたあとは、近くのカフェで昼食をとって、紀伊國屋をふらふらと見て回った。おもしろそうな本がたくさんあるのに、自宅の本棚にある本すら読み終えられていない自分のことが悲しくなる。いつものやつ。
 夕方になって、映画館で『パーフェクト・デイズ』を観た。役所広司が出演していること以外何も知らないで行ったので、はじめのうちは、主人公の育てている植物が違法薬物なのではないかとか、清掃の仕事で訪れたトイレの扉を開けたら死体が転がり出てくるんじゃないかとか邪推してしまったが、ひとりの男の生活を丹念に映した、美しい作品だった。好きな色彩感の映画だったし、感じるものも多かった。静謐さ。ホメオスタシスの話だなと思ってみていた。淡々としているけど、単調ではない。物質的な豊かさはないのに、これ以上ないほどに濃密な豊かさがそこにあった。私が常々口にする「身軽になりたい」を突き詰めたらここに行き着く。ちょうど斎藤幸平の『ゼロからの「資本論」』を読んで資本主義への反感を強めつつも、物質にまみれた自分がすっかり恥ずかしくなっているところだったので、こんなふうに生きられたら、と思わずにはいられなかった。
 あまりに理想を描きすぎているからか、海外志向ゆえに滲んでしまうオリエンタリズム的な描写のせいなのか、現実味にはやや欠けていたけれど、喜怒哀楽はすごく丁寧に演じられていて、ヒラヤマという人間の説得力はすさまじかった。役所広司ってものすごい役者なんだなあとしみじみ感じた。車内で音楽を聴きながら楽しそうに舌を出す表情の、艶があること!目に焼き付いている。ラストシーンも忘れられない。
 ほんとうにすごく良かったけど、明らかに資本主義批判的な側面があると思うのに、意図的に政治色を脱色している感じがあり、あまりの無臭さが逆に気になった。ただ、もしこれが貧困という切り口を前面に出してしまったら最後、貧しくても豊かに暮らせます!みたいになってしまって、いよいよ戦前プロパガンダの様相を呈してしまうような気もするから、これはこれで良かったのかもしれない。個人の選択の結果として資本主義から離れた先にあの豊かさがあるのなら、それはやっぱり希望として受け取っていいのではないか。ちょうど前の日の高校の同窓会で、華々しく海外を飛び回っている同級生たちの話を聞いて、しがないサラリーマンをやっている自分のことが心底退屈な人間に思えつつあったので、そのタイミングで、別のベクトルでの豊かさを提示してもらえたのも救われるような思いがあった。こういう物語の女性版があるなら観てみたい。
 地元に戻ってきて、空腹に耐えかねて近所の中華料理屋に入った。焼き小籠包、メンマ、キクラゲをつまみにビールを1杯だけ飲んだ。この街に住んで6年目なのに初めて入った店だったが、安くておいしくてかなり気に入った。もっといろいろ頼んでみたい。それから帰宅して、残っていた食材でお雑煮と炒飯を作った。炒飯には、角煮を作ったときにとっておいたラードを使った。それと、映画に触発されて缶のハイボール。ほんとうなら七草粥の日だというのに、今さら今年初のお雑煮だし、胃を休めるどころではない食事になってしまった。
 食後は展覧会に行ったら無性に見返したくなってしまったNHKの番組『贋作の誘惑 - ニセモノ VS テクノロジー』を半分ほどと、セブンティーンのバラエティ番組『ナナツアー』の1話を途中まで観た。ナナツアー、おもしろくて涙が出るほど笑ったし、一緒に観ていた連れも楽しんでくれていたようで嬉しい。この調子でセブンティーンのこと好きになってくれないかなあ、とひそかに目論んでいる。