叫ぶ

このブログはもともと、アイドルのことしか綴らないつもりで作った。内輪の人にしか見せないプライベートなことを綴るブログは別にあって、そっちはそっちでたまに更新したりしていた。でも、なんだか馬鹿らしくなってしまった。そうして細分化して、場所に応じて見せる自分を変えるたび、自分が引き裂かれていくみたいだと思う。変な話だ、私は一人しかいないのに。自分の存在証明のために文章を綴っているのに、それが自分を分断していくだなんて本末転倒もいいところじゃないか。

アイドル垢で政治や社会問題のことはなんとなく言いにくいし、リア垢で「まじ推しの顔面大正義」なんて言おうもんならそれはルッキズムだと反論されそうだからやっぱり口をつぐむ。大体K-POPは、私が現実に生きる世界で主流のフェミニズムジェンダー論とは親和性が低い。

でも、だからってそうやってなんでもかんでも飲み込んでいかなきゃいけないの、いい加減気持ち悪い。私は性的少数者であり、リベラルであり、フェミニストで、そのくせ性別二元論に明確に基づいたK-POPが好きで、男性同士の恋愛にロマンを見出すタイプの人間だ。矛盾してる。矛盾しまくってる。でも、私は叫びたいんだ。私はここに、相反したものを抱えながらも存在しているんだ。言いたいことを言わせろ。ポリコレの追求だなんて、ダイバーシティが声高に謳われるこの世界では机上の空論に過ぎないんだから。その二つは両立できないよ、いい加減気付け。だってそうでしょう、真にダイバーシティが浸透した世界に、そもそも一義的なコレクトネスなんてものは存在しえないんだから。

同じように、世の中に一義的な普通なんてものは存在しない。各々が「普通だと思っているもの」があるだけだ。でも、あなたが考える「普通だと思うもの」と、私が考える「普通だと思うもの」は決して同じじゃない。差異が十分に小さければそれは無視できるかもしれないけれど、本来それは目を逸らすべきではないと私は思う。私はそう思うのに、世の中の大抵の人は、ありもしない普通を信じて、それを他人と共有できていると信じて疑わなくて、それを規範にして平気で生きている。私にはそれが心底理解できない。私の考える普通は、たいていの場合人とは少しずれているらしい。友人は私を普通じゃないという。私はどうやらそうらしい、としか思えない。私は私にとっての普通の中で生きてるんだから。でもこんなことをぐちゃぐちゃ考えている時点で普通じゃないことくらいは、最近わかるようになった。

少なくとも、生きづらい人間だとは自覚している。全部が疑う対象になりうるのだから。母は私が鬱病の類だといった。けれどそもそも病を患っているとはいったいどういうものなのか。病の定義とは何か、とか。私は世間的には割と恵まれた容姿をしているらしい。けれど、何をもって美しいとされるのか、私にはわからない。鏡を見て自分で悪くないな、と思ったことはある。でも私がそう判断する美の基準は、果たして信頼に足るものだろうか。美しいとはどういうことなのかもわからずに美を語る資格などあるのだろうか、とか。延々とそんなことばかり考えて、今日もまた一日が溶ける。好きでこんなことしてるわけじゃない、ただ気が付いたらこうなっていた。

デカルトは方法的懐疑という手段をとって方法序説を書いて、最終的に神の存在証明を試みたらしいけど、その目的はあんまりちゃんと果たされたように見えない。素人目にも詭弁ぽいなと思うものがある。後世の哲学者たちには実際けちょんけちょんに言われているけど、何よりも彼自身がその理論の危うさに気が付いていたんじゃないかと思う。Cogito ergo sumは揺らがないにせよ、それ以外に信じるものがない彼はきっと生きるのが辛かっただろうなと思う。デカルトは信じたかったんじゃないかな。信じる根拠が欲しくて方法序説を書いたんじゃないか。私は神は信じていないけど、愛は信じたいから、そうだとしたらきっと気持ちはわかる気がする。信じるものがある人は羨ましい。クリスチャンの友人や知人は結構いるけど、神にすべてを預けた姿は強い。キリストが罪を引き受けたということの意味は、最近少しずつ分かってきたような気がする。気がしているだけかもしれない。でも別に神じゃなくたって、それが家族だって恋人だって友人だっていい、信じるものがある人は強い。私にはない。そんなものを感じていられるほど、この世界に希望を見ていない。信じることができるというのは、それ自体が一つの才能だと思う。馬鹿にしてるわけじゃないです。うそ、ちょっと馬鹿にしてるかも。こうして斜に構える自分がかっこいいと思っていないわけじゃないし。

関係ないけど、デカルトといえばウォヌがつい一昨日のソウルコンで、ヘナタトゥーで”I think, therefore here I am”を体に刻んでたね。それ自体は有名すぎるくらいに有名な言葉だし、哲学を少し知ってるくらいで深い人間だなんて思わないけど(だってそしたら私が深い人間だということになってしまう、そんなわけはない)、コンサートという場で、あえてその言葉をチョイスするところが、ものすごく好きだと思った。ラテン語だったらもっと興奮したけど。ウォヌは割と仲良くなれるんじゃないかなって思う。烏滸がましい?知ってる。形而上学的な話を延々するのは結構得意なんだ、私は。

言葉は、私のすべてだ。私は言葉を通してしか世界と接することができない。感情なんてものは信じていない、愛なんてものが存在するとも思っていない。人との共感なんて、愛なんて、恋愛なんて幻想だ。人は理解し合えないものだ、ただ本人たちが理解した気になっているだけだ。本気でそう思っている(これも、普通じゃないらしい)。性愛をテーマにした小説を書いている身なのに、自分が信じていないんだから、私の書くものは空虚だ。テクニックだけに物を言わせている感じがする。でも、信じたいから書いているのだとも思う。自分の文章は美しくて好きだけど、でもそれは、人工的な美しさだ。私の文章はきわめて写実主義的だ。それはそれでひとつの美徳だとは思っているけど、本当はもっと抽象度の高い言葉を紡ぎたいなと思う。絵画だって印象派が好きなんだ。

ツイッターで知り合った人で、ものすごく綺麗な文章を書く人がいる。どちらかといえばわりと写実的なタイプだ。でも、テクニックも確かに優れているけれど、それだけじゃない。精緻な描写の裏から薫る、書き手自身の豊かさみたいなものがある。その人は同い年らしい。会ったのは一度だけ。なのに、私はたぶん、半分くらいその人に恋をしているんじゃないかと時々思う。なんてね。恋が何だかもわかっていない癖にこんなことをほざくのは、恋がなんとなく美しい話に仕上げてくれる万能調味料だからに過ぎない。

私にとってただ唯一確実なのは、生きるのがものすごく面倒だということだ。大学院での生活が死ぬほど肌に合わなくて、毎日毎日本気で死ぬ方法ばかりを考えていた私を見かねて、母は私を心理カウンセラーのところに引きずっていった。その甲斐あって、積極的に死を望むことはなくなった。母は私が元気になったと喜んでいる。でも、あれは、ただの対症療法だったと思う。ごめんね母さん、私は何も変わっていないよ。ただ、辛く感じる感覚が少しだけカウンセリングによって麻痺させられただけ。だから、前みたいに辛くない。毎日泣いたり、ヒステリー起こして壁に頭をがんがん打ちつけたり、自分の腕に血が出るほど爪を立てたりすることもない。辛くないはずなのに、まだ死にたい。

というか、死んじゃいけない理由がわかんない。死ぬのも面倒だし、苦しいのも怖いのも嫌だから仕方なく生きてるけどさ。周りの人が悲しむから?そんなの知ったこっちゃない。周りの人の悲しみは私には関係ない。死んでしまえば尚更だ。大体、私が死んだところで周りの人はそのうち立ち直るし、世界は私の死くらいじゃ変わらない。生を美化していなきゃ世の中死にたがりで溢れちゃうから、世界はいかに生きることが素晴らしいかを教え込もうとするけど、世界はクソだとしか思えないよ私には。

私が絶対に子どもを産むまいと決めているのは、こんな思いをする人間を、この世にこれ以上増やしたくないからだ。今の社会に、すなわち子どもを産まないという選択肢もだいぶ市民権を得てきたこの時代に、なお子どもを産むというのは、100%親のエゴだ。そうして望みもしないのにこの世界に強制的に存在させられてしまったわが子に、生まれてきたくなどなかったなんて言われた日にゃ、想像するだけできついものがあるよね。自分の話だ。とんでもない親不孝だという自覚はある。でも、そもそも産んでくれと頼んだつもりもない、育ててくれと頼んだつもりもない。親がそうしたかっただけの話だ、そこに私の意思はない。彼らが望んで生まれてきた私が、今生きている。これ以上、親孝行を要求されること自体が理不尽だと思う。最低でしょう?でもこれが私の感覚だ。

私は確かに両親に望まれ、愛されてきた。らしい。だからこんなのはただのわがままであり贅沢なのだという批判があるかもしれない。もっと恵まれない人だっているんですよ?うるせえ黙れ、以外返す言葉はない。何が贅沢で何が幸せかなんて、誰にも決められないのに。大体、愛されてきたから同じ分だけ愛し返さなくちゃならないだなんて、一体だれが決めたんだ。それが「普通」だから、か?クソくらえ。

そもそも彼らの愛がエゴではないと言い切ることは私にはできない。彼らは、自分たちが私に愛情を注ぎ込んできたと信じている。私を人間としてある程度まともな状態に育てるために膨大な時間とお金をつぎ込んできている。果たしてそれは愛なのだろうかと疑ってしまう私は、やっぱり最低な娘なんだろうと思う。もっとも、愛が何なのかをわからない私には、それが愛なのか、それともそうでないのかを判別する術はない。だったら彼らの信じたいものを信じさせてあげてもいいのかな、とは思うのは、私にぎりぎり残った優しさだ。だからなんだかんだちゃんとした会社に就職してあげる。でも、そこで終わりだ。もう終わり。私は親と関係ない人格として生きていきたい。親に規定される自分はうんざりなんだ。とにかく、子どもなんか産むものじゃない。

生きるのやめたい、でもやめる勇気もない。いつかこんな風に思わなくなる日が来ればいいのに、というよりは、いつか死ぬ勇気が私の背中を押してくれればいいのに、と思っている。