時間も霞む雨の日は

昨夜は台風だった。ばらばらと雨粒が窓ガラスに叩きつけられていた。この文を綴り始めてまもなく中途半端に暗くなった空は、厚い雲のせいか、それともその後ろで身を潜める太陽の役目の終わりだったからか。夏だ。乾いた部屋の中で雨音を聴いているのが好き、という人は私だけではないだろう。隣に好きな人でもいればもっと良かったのだが、生憎とそんな相手はいない。

夏は大好きで、大嫌いだ。どんな季節も苦しさはいつだって私のすぐ側にぴたりと張り付いて離れようとはしないけれど、夏は格別だ。すれ違う浴衣の少女たち、派手な色の水着を着せられたマネキンたち、日に焼けた少年たちの褐色の肌。街に溢れる彩り鮮やかなショーウィンドウとは裏腹に、ことさらに死をすぐそこに感じる季節、それが夏だ。それがなぜなのかについて深く考えたことはないけれど、私はそのちぐはぐさが嫌いではない。外に出るたび、気持ち悪いなあと思う。その気持ち悪さが愛おしいな、とも。

ここ最近、ひたすら文章を書くことに没頭しているけれど、同じ界隈には良い文章を書く人たちがたくさんいる。それはもう、悔しくなるほどに。比較することに意味などないとわかりつつも、妙に焦燥感を刺激される。

文章というのは、書く人を映す鏡だ、と思う。素敵だと思う文章があれば、私はその書き手の人格そのものにそのまま惹かれる。会ったことのない人であってさえ、その人の書いた文章ひとつで、私は恋に落ちることができる。その人が、何を見て、何を感じて、何を考えて、どんな言葉を選んでそれを共有するのか。そこに私は一つの宇宙を見出す。すなわちその人の言葉は、その人がどう世界を解釈しているかを他者が知ることのできるひとつの覗き窓なのである。だから、良い文章に出会って悔しくなる時というのは、美しい言葉を使う彼女たちの目に映る世界を、私が理解することはできないという事実を突きつけられる時なのである。私もそういう文章を書きたい、と思う時というのは、彼女たちが見ているであろう世界の形を私が見ることの叶わない残酷さと直面せねばならぬ時なのである。

私は私の方法で、彼女らは彼女らの方法で、世界を捉える。その世界を、言葉という道具を用いて共有する試みこそすれど、世界そのものが本質的に交わることはおそらくない。

なんという大きな空間が、人と人とのあいだの心の通い路を閉ざしていることだろうか!

(中略)

一人の少年が、壁に首をもたせて、声もなく泣いている。ぼくの思い出に、彼については、慰めがたい一少年として以外、何ものも残らないはずだ。ぼくはエトランゼだ。ぼくには何もわからないのだ。ぼくは、彼らの帝国にはついにはいってはゆけないのだ。

サン=テグジュペリ『人間の土地』(堀口大學訳)

 

それでも、少しでもその帝国を見てみたくて躍起になっている。だから、もっと本を読もう、と思った。

上に引用したサン=テグジュペリの作品は、友人に「とにかく読んでほしい」と薦められたものだ。ようやっと昨日手に入れて、今半分ほど読み進めたところなのだが、人間の存在を柔らかく慈しむ言葉たちがじんわりと胸に沁みる。

私は2017年に生きている。サン=テグジュペリが生きていた時代よりも、もっと簡単に絶望できる時代になってしまった。彼が美しいと思うほどには、私はこの世界を美しいとは思えない。この星の至るところに蜘蛛の糸が張り巡らされてからというもの、世界はまるごと愛するには、あまりにも色々な、悲しいことが、簡単に見えるようになってしまった。私はありとあらゆることに絶望して、逃げ出したいと喚く心を持て余している。

けれども言い換えれば、彼のように空を飛ばずとも、暗夜に輝くともしびを見ることのできる時代でもある。

世界は残酷になった分だけ、面白くなった。普通に生きていただけでは一生出会えなかった言葉と、一生交わらなかったであろう人々と、出会うことを可能にした。有名でもなんでもない、「ふつう」の人たちこそが天才であり、サン=テグジュペリがいうところのともしびであるのだと知った。

 ぼくは、アルゼンチンにおける自分の最初の夜間飛行の晩の景観を、いま目のあたりに見る心地がする。それは、星かげのように、平野のそこここに、ともしびばかりが輝く暗夜だった。

 あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇蹟が存在することを示していた。あの一軒では、読書したり、思索したり、打明け話をしたり、この一軒では、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭したりしているかもしれなかった。

(中略)

しかしまた他方、これらの生きた星々のあいだにまじって、閉ざされた窓々、消えた星々、眠る人々がなんとおびただしく存在することだろう……。

 努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。

サン=テグジュペリ『人間の土地』(堀口大學訳)

ともしびがそこにあるというだけならば、誰にでも気付ける。けれど、そのともしびの一つ一つが “読書したり、思索したり、打明け話をしたり、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭したり” する人々の存在の証であるのだということは、忘れがちだ。ウェブの大海原に漂う、ともしびたる言葉たちの向こう側、そこに確かに生きる人々から目を逸らすまいと己に改めて誓う台風一過の昼。

まだだ、絶望するには早すぎる。