欠陥製品

付き合っていた人にフラれてからそろそろ2か月くらい経つんだけど、あんなに調子よかったメンタルがどんどん下降してきている。別にその人のせいだけではないけれど、きっかけだったのは間違いない。大学院に通えなくなってから10ヵ月、やっと普通の生活ができるようになってきたと思ったのに。また逆戻りだし、結局自分の根本は何をしようと変わらないんだなというところに行きついて、もう直したいと思う気持ちすら萎えている。4年戦っても勝てなかった、もういいよ。

母親が私の扱いに困っている空気を感じる。そうだよね、やっとの思いで引きずっていったカウンセリングで8ヵ月かけて、やっと娘が回復して元気になったと喜んでいたらまたこれですもんね。母は利口な人だと思うし、私がどんな状態であれ一貫した態度を取ってくれる人ではあるけれど、だからといって、その後ろにあるものまで隠しきれているわけじゃない。最近は親と会話をするのも億劫で、最低限しか口をきいていなかったけど、今日は珍しく昼食の時にちょっと他愛のない会話をした。それだけで、彼女が安心しているのがなんとなくわかってしまって、不愉快だと思った。

まだ親を嫌いだと言い切る勇気はない。というか、別に嫌いではないと思う。少なくとも、死んでほしいとかそういう風には思っていない。両親には幸せでいてほしい。ただ、その幸せに、私を含めないでほしい。親子という関係性が心底重い。

かなり長いこと、親を神格化してきた。親が自分と同じように感情を持った人間であるということを理解したのは、人よりずいぶんと遅かったように思う。まぁ、どれくらいの年齢が一般的なのかは知らないけど、発達心理学的に親と自己を切り離すのが自我同一性の確立の一プロセスとして考えられるのならば、思春期がそうなのだろう。けれど少なくとも私は二十歳になるまで親を疑うということを知らなかった。彼らの言うことならば絶対であり、間違いのないものだと信じていた。私の意思はすなわち親の意思だった。自分だけでは何も決められなかった。大学3年くらいまでは毎日の服すら親に決めてもらっていた。私の人生が私だけのものであったことはなかった。初めてのセックスの相手も、それがいつだったのかも親は知っている。後から知ったとかそういう話ではない。リアルタイムで把握されている。だって、恋人と国内旅行に行くのに泊まるホテルの名前を報告しなきゃいけなかったんだから。

しかも、両親はその「完璧な親」を文字通り完璧に演じてきた、私が疑う余地などないほどに。特に母親が感情的になったところを、私はほとんど見たことがない。叱られたことはあっても、怒られたことはない。母は私にとって完璧な人間だった。私が母に唯一勝てると思っているのは学歴だけだけど、実際それすら親の課金で手に入れたものであって、私の実力ではない。

親への信仰を打ち砕いてくれたのは、大学4年の時に少しの間だけ付き合っていた人だった。その人は一人暮らしをしていて、私はしょっちゅう遊びに行っていた。でも、外泊はしなかった。帰りたくなくて終電を逃しても、私の中に帰らないという選択肢はなかった。親が外泊を禁じていたから。その人は、「おまえはどうしたいの?親は関係ないでしょ、おまえがどうしたいかが大事でしょ」と言ってくれた。その人としてはごく当然のことのつもりだったのだろうけれど、私にとっては世界が変わった瞬間だった。なんだ、そうか。親と価値観が違っていてもいいんだ。親からかかってくる電話を全部無視して、携帯の電源を落として、その人と一緒に眠った。朝起きたら「住所を教えなさい、車で迎えに行くから」というメールすら入っていて、ドン引きした。娘が思い通りにならなかったというだけで血相変えて、なんでこんな必死なんだろう、この人。そう思った。大学4年の初夏の話。その人とはすぐに別れてしまったけれど、今でも感謝している。

それ以来、随分とマシになったと思う。親は親なりに諦めをつけたんだろうし、私は22歳を過ぎて、ようやく自分の人生を自分で歩くということを始めた。もっとも、今でもそれは成功していない。肝心なところで親を頼る癖はなくなっていない。親が都合よく私に接してきたのと同じくらい、私も都合の良い扱いを彼らにしている。

思考停止の妄信をやめたら、彼らは普通の人間だった。

しこたま飲んで帰宅して、トイレでげえげえ吐く父を見てから、酔うほど酒が飲めなくなった。終電を逃した父を母が車で迎えに行くと言って出て行って、妙に帰りが遅い時はどこかでいちゃついてるのかな、と思うようになった。酔って私にダル絡みをする父を見て、会社の若い女性にもこうしてセクハラをしていたらどうしよう、と不安になった。私が外泊して家を空ける時、彼らもセックスをするのかな、と思うようになった。不機嫌な父に八つ当たりをされても穏やかな顔を崩さない母に、この人は一体どれだけのことを言わずに飲み込んできたんだろう、と憐れみを覚えるようになった。

いいんだ、人間なんだから、人間らしくいればいいんだ。酔っ払おうがセックスをしようが悩もうがそれは彼らの人生なのだからどうぞご自由に。仲が良いのも大いに結構。頭ではそう思っていても、心がそれを拒否する。私は、綺麗じゃない彼らを未だに受け止めることができていない。

自分がきちんと自我を確立できてさえいれば、こうはならなかったのだろう。私は親に信用されてこなかった。過保護とはそういうことだ。子どもに対する不信であり過小評価だ。

親に依存することで安心を得ていた私が親から離れるのは、めちゃくちゃ苦痛を伴う行為だ。結局恋愛依存的なところがあるのは、そのあたりが関係しているのだろう。安心が欲しいのだ。一人じゃ不安なのだ。

家を出たい。でなきゃいけない。このままじゃだめだ。