愛していると叫べ

前ブログからの移行シリーズ。今年の2月頃に書いた文章をベースに、少し加筆修正。

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大学院を休学してから、丸1年とちょっとが経った。入社式を来週に控えて、久しぶりに美容院に行ったら、6年半お世話になっている美容師さんに「もうゆっくり遊べる時間は定年までないよ」と脅された。私の人生の休暇が終わろうとしている。

一年半前の今日は、高校の友人2人と行った卒業旅行でヨーロッパから帰国した日だ。3月には台湾に3泊、小笠原に1週間、伊豆大島に1泊、卒業式の翌日から九州4泊(だったっけ)と、今考えたら信じられないくらいの過密スケジュールを詰め込んで、4年間で僅かばかり貯めたお金を惜しげもなく食い潰した。少しくらい残しておけば、という気持ちもないではないが、後悔はしていない。

小笠原の宿で出会った知人が世界一周の様子を報告しているのをfacebookで見ながら、旅をしたいなあと思っている。別に世界一周である必要はないけれど、今更、この休みの間にもっと旅行にでも行っておけばよかったかな、と後悔している。

 

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オーストリア・ウィーン市街
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ウィーン国立図書館

 

旅をするモチベーションは人によって様々だろう。言葉、色、空気、匂い、食べ物、あらゆるものが違う。同じ国の中でさえそうだ。自分の生活から遠く離れた非日常を自分の五感で体験したいというのがありふれた動機だと言いきるのは容易いけれど、その衝動が満たされるのは旅をすることによってのみだ。なんだかんだ言っても、私だってそのギャップに魅力を感じる一人である。

けれど非日常感よりも私を知らない場所に駆り立てるその衝動の正体は、写真を撮りたいという欲だ。感じたいというよりも、撮りたい。自分の目でファインダーを覗いて、自分の手でシャッターを切りたい。世界の美しきものたちを、自らの手で切り取りたい。ある種、征服欲と呼んでも良いかもしれない。

 

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香港・深水埗

余談だが、帰国子女の多い環境で育った私の周りでは、旅行といえば当然海外みたいな雰囲気があった。ひねくれ者をこじらせている私はそんな風潮に反発したい気持ちがあって、卒業間近までほとんど海外には行かなかった。両親の結婚25周年記念旅行のアメリカと、卒業旅行だけだ。その分、所属していた自転車サークルの活動で日本は北海道から沖縄までかなり色々行ったし、そのことには十分すぎるほどに満足しているのだけど、やっぱり変な意地を張らずに海外行っておけばよかったな、とは思う。

 

でも大事なことは、旅に出ずとも写真は撮れるということだ。被写体なんて、そこら中にあるのだもの。撮りたいものなんて無限にあるし、美しいものはすぐそこにある。そう、たとえば夕飯のあとのひそやかな楽しみでさえ宝石のように煌めいている。

 

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だから撮りたいならば、四の五の言わずにカメラを持ち出せばいいだけの話なんだけど、そうもいかない。

好きなものに対して好きと言えない。私はいつの間にか、すっかり臆病になってしまった。

 

ところで、ホワイトハウスの公式フォトグラファーがオバマ元大統領の任期中に撮影した写真を見た時の衝撃が忘れられない。政治的な理屈もさることながら、ごく個人的に私はオバマさんが好きだったけれど、それを差し引いてもこの写真たちは素晴らしかった。言葉を尽くせば尽くすほどに陳腐に成り下がると思うから、これ以上言語化したってどうしようもないのだけど、一言でいうと、写真を辞めたくなった。

写真が趣味だと言い切ることすら躊躇う自分がプロと比較するなんておこがましいにも程があるのだけど、見た瞬間敵わないと思った。一生かかっても、いや来世でも、私にこんな写真は撮れない。被写体の問題とか、そんな次元ではない。ならいっそ、もう辞めちゃおうか、と。

敵わないなあ、と色んな人に対して思いながら生きている。裏を返せば人の魅力を見つけるのがうまいということなのかもしれないが、それを自分と切り離せないからいけないんだろう。

カウンセラーに、「きりさんは上を見てばっかりで動けなくなっていますね」と指摘されたことがある。まさにその通りで、私はいつも上を見て「自分なんか」と思うことで、やらない言い訳をしてきた。だって、傷つきたくない。自分で思うよりも現実の自分が駄目なんて知りたくない。そう、自分に期待していたいだけの甘ったれである。

だからといって、下を見て優越感に浸るようなこともできればしたくないし(しばしばしてしまうけど)、人と比べずに自分のことを評価したことなどないから、今更できない。人と比べても仕方ない、みたいなのはありとあらゆるところで耳にするけど、うるせえよといつも思う。私らしく生きようと思って、それができるのなら苦労はしていないはずだ。

 

少しベクトルを変えよう。

「詳しくなければただのニワカだ、ニワカにファン(あるいは、他の何か)を名乗る資格はない」というような雰囲気は、何を好きになってもそのコミュニティの中でついてまわるものらしい。アイドルオタクをやっていても感じるそれは、カメラの世界でも顕著だった。表立ってそうとは言わずともマウントを取り合うような、どことなくぎすぎすした空気に、ともすれば自分も染まってしまいそうなのが嫌で、写真を投稿するために作ったツイッターのアカウントはすぐに消してしまった。そんなだから、今使っている旧式のぼろい愛機のこと以外何も知らない私は「カメラが」好きだとは言えないし、写真が好きだと言うことすら臆病になる。

「ニワカかどうか」の判別基準みたいなものがあるとしたら、写真の界隈ではレンズ沼に嵌っているかどうか、のような気がしている。正直なところ、この雰囲気に乗せられて、必要もないのに自分から沼に足を突っ込んでいるように見える人も少なくはない。確かにレンズには色んな種類があって、種類によって被写体の向き不向きなんかがあったりするから、欲しくなる気持ちも想像できなくはないのだけど、「あるもので撮ればいいじゃん」と思う。

そう思うならそれで突き通せばいいくせに、沼に落ちていない、いわばマイノリティである自分に写真好きを名乗る資格はないのではないか、などと考え出す自分もしっかり存在している。写真と向き合えずに妥協している現状の言い訳にしてるだけじゃないの、と突っ込む自分を振り払えない。結局マイノリティであることに酔っているだけなんじゃないの、とも。

色んな鎖で自分を縛り付けて、どんどん写真を撮らなくなっていく。たまに撮るたびに、自分の腕が落ちているのを自覚して、さらに遠のく。自分の写真なんて、どうせ。

 

そう思う一方で、自分から写真をとったら何が残るんだ、という思いもある。写真は好きだ。シャッターを切る瞬間が好きだ。撮ったものの出来に納得がいかずに見返して落ち込むこともあるが、ファインダーを覗いている瞬間だけは、100%幸せだ。

趣味は多い方だし、好きだと思えることは他にもあるけれど、これだけ悩みながらも未だに捨てられないのは写真くらいじゃなかろうか。最近は文章を書くこともそこに含まれつつあるけど。

 

頻繁に写真を撮るようになったのは高校2年生の終わり頃からだったか。
パンツが見えるんじゃないかってくらい短いスカートにはちぐはぐな、いかつい一眼を毎日のように持ち歩いていた女子高生時代とは打って変わって、大学に入ってからはめっきり撮らなくなった。単純に忙しくなったのもあるが、なんというか、周りでもカメラを持っている人が増えて、私より巧い人なんかそこら中にいることを知って、アイデンティティとして機能しなくなっちゃったのかもしれない。

SNSが生活に馴染んで、他人の写真が目に入るようになったことも大きい。高校という小さなコミュニティの中では多少スキルがある方だったけれど、もっと広い世界が見えるようになって、自分が思っていたほど写真が巧いわけじゃない、というのを否が応でも思い知らされることになったわけである。

当時はカメラ女子という言葉が台頭し始める少し前で、前後して宮崎あおいが某メーカーのミラーレス一眼のCMに出演してから爆発的に広まった気がしている。ほとんど時期が違わないだけに、カメラ女子なんだねと言われることも少なくなかったが、私はそう言われるのがとても嫌いだった(今も)。一眼レフを使っているというプライドもあって、手軽に使えるミラーレスごときでカメラ女子なんてファッションの一環としてやってるだけでしょ、なんてに馬鹿にしていた時期もあった。今思うと何様だ、という感じだ。考えてみれば、アイデンティティを写真に求めている時点で、私も同じだったのだから。

ただ、ファッションアイテムとして割り切るには、ちょっと踏み込みすぎた。写真を撮ることは紛れもなく私の一部になってしまった。

いつしかカメラ女子を馬鹿にすることはやめた。正確にいうなら、馬鹿にできなくなった。だって、すごく素敵な写真を撮るのだ、彼女たち。

つまりだ、なんのことはない、私の劣等感を刺激するようなきらきらした女の子に、唯一自分が取り柄だと思えるフィールドまで脅かされるのが不愉快だっただけの話である。「どうせファッションなんだろ」と下に見ることで、せめて自分の取り柄くらいは守っておきたかった。「カメラ男子」に対してはここまで強くは感じないのが証拠だろう。

当然ながら勝ち負けの世界ではないし、性別という概念を嫌いながらも結局女性性にこだわってるんだから、本当矛盾の塊だ。しょぼいなあ、自分。

単純な話だ。自信がないのだ、自分に。

 

今年に入って小説を書くようになった。その創作のアカウントで繋がった人が、ある時、「私は自分の作品のファンだから」と言っていたことがあった。すごく、いいなと思った。

自分らしさ、なんて、わからない。自信なんてない。それでもふっと立ち止まって、自分の撮った写真を、書いた文章を、見返すとき、確かに私は好きだと思っている。自分の生み出すものが、好きだ。

 

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言葉を綴ることも、写真に残すことも、モチベーションの根っこは同じで、私の心を動かすものはひとつ残らず愛おしいし、だからそのしっぽを掴んでおきたい。

その心の動きというのは、何も嬉しいとか幸せであるとかプラスのものだけではなくて、苦しかったり、悔しかったり、腹立たしかったり、そうして自分が「何かを感じている」ことこそが自分が生きている証だと思う。だから、それを全部全部見える形で残しておきたい。でないと手をすり抜けて消えてしまう。私は欲張りだ。

 

恥じたくない。愛するものを、愛していると胸を張って言える人間でありたい。

写真を撮るのが好きだ。文章を書くのが好きだ。アイドルが好きだ。何かを愛せている自分を愛することくらいはしてあげてもいいじゃないか、そんな気持ち。


超余談。

OLYMPUSは、私が使っているE-5というモデルを最後に一眼レフの生産を終了した。発売された2010年当時はそれなりの話題をさらったそうだが、今となってはCanonNikonの入門レベル(友人が持っているのを使わせてもらったりした)の足元にも及ばないという印象である。使っていて、このポンコツめ!としょっちゅう思う。

それでも、手放す気はない。格下とか格上とか、高性能とか旧式とか、結局何にもならない。使い手の気持ちの問題でしかない。

愛しているから余計、置物に等しい今の扱いに申し訳なさを感じる。時々、もっと構ってくれという声が聞こえる。ごめん。

 

こんなもん書いてる場合じゃないんだってば。また現実逃避しちゃったよ。あーあ。