日和見主義な卑怯者のブーメラントーク

久しぶりに前ブログからの移行。一昨年の11月、アメリカ大統領戦の頃に書いた文。

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アメリカ大統領選。私の周りの大多数がそうだったように、私もまた、予想外の結果に落胆した側の一人だ。予想外、というのが正しいのか、今となってはわからない。「なんだかんだ言ったってトランプになるわけはない、どうせヒラリーだろう」という希望的観測が、私の、そしてメディアや有識者の目をも曇らせていたに過ぎないのかもしれない。もっともらしい言葉が飛び交っていて、何が正しいのかなんてわからないから、結局信じたいものを信じようとしている。今も。

今回のことについて、色んな意見を目にした。その中には、なんだかものすごく釈然としない気持ちにさせられるものもあって、面倒だから目を逸らしてしまいたい気持ちもあるのだけど、やっぱり割り切れなくて、勢いで言語化しようとしている。

選挙の結果についてとやかく言うつもりはない、というか、参政権もない部外者にこれ以上言えることはない。正当な手続きを踏んだうえで決まったことなんだから、もうあとは野となれ山となれ……じゃなくて、なるようになる。なるようにしかならない。

 

たしかに、他国の選挙にこれだけ盛り上がるのは、ちょっとした異常事態だ。私自身が幼少期にアメリカに滞在経験があり、かつ出身高校・大学が特殊な私の周りには、米国籍を持っていたり、長年滞在していたり、今も暮らしていたりする知人が多いからあまり違和感はなかったものの、街中ですれ違った人のスマホの画面に、赤と青で塗りつぶされた地図が表示されているのを見かけたのも一度や二度ではなかったから、かなり驚いた。国内の選挙なんかよりも、ずっと注目度が高いと感じたのは気のせいではないだろう。

だけど私の言いたいことはそこにはない。もやっとしたのは、強い言葉で正論を主張して、他者を「批判する」人たちに対してだ。他国の選挙結果にお祭り騒ぎする日本人、を俯瞰して嘲笑する人々に、心がざわついた。

これは以前にもツイッターで言ったことだけど、正論を唱えることが必ずしも正しいことであるとは限らないと思っている。正論は、強い。正しくないものを否定する力を、傷つける力を持っているから、強い。

私は、正しさが苦手だ。正しいことを主張する人が、正しいことをを主張することを正しいと信じて疑わない人たちが、怖い。私自身が矛盾の塊のような人間で、一貫性も論理性もないから、正しさを振りかざされると、縮こまってしまう。

論理的に誤っているものを正すことは、人間性を否定することとイコールではないことくらい、頭では理解している。それでも、正しさを押し付けるということは、その正しさに合致しない人たちを切り捨てることでもあるように、私には感じられてしまう。その暴力性が怖い。

 

私は、人間をカテゴライズすることによって、そのカテゴリーの構成員の個性から目を逸らすことにすごく抵抗があって、文化でも性別でも人種国籍でもなく、常に最小単位は個人であることを忘れないようにしたいと思っている。もちろん常にそれを実践できているとは言えないのだけれど。

そういう考えを持つ人間として「批判」(という名の否定行為)に消極的なのは、多くの場合批判の対象が複数人の集団であり、批判者はその集団の構成員の「批判すべきところ」だけを都合よく切り出して合成した、存在しない相手を槍玉にあげているように見えるからだ。対象集団の中に「個」を感じさせない曖昧さがあるからずるいなと思うし、批判者とそれ以外の人々の間で対象の定義に誤差が出る。前提を共有できていないから議論としては成立しないし、結果、あるクラスタを貶めて自分の価値を相対的に高めようとしている行為であるように映る。

もちろんすべての批判がこれに当たるわけではなく、reasonableと感じるものもあるのだけど、その線引きが感覚的なものだから難しい。ただやはり、批判の対象、議論の対象を明確化するのは大事だと思う。「強い言葉で正論を主張する人たち」なんてふわっとごまかすのは、卑怯だ。……笑うところです。

ただ、個人に対する批判は、批判される個人にそのつもりがない限り、中傷として受け取られやすいから難しい。それに、いちいち個人ごとに批判するなんて労力が半端じゃないので、やっぱり集団を対象にする方が効率的なのだ。ところが対象が複数になった時点で、その構成員の最大公約数的な要素だけを批判せざるを得なくなってしまうから、これは矛盾としか言いようがない。

うーん、不毛な話をしているなあと、我ながら思う。

 

 一旦方向を変えてみる。

私が卒業した大学では、批判的思考という言葉を耳にたこができるほど聞かされて過ごす。その重要性は疑いようのないものだと思っている。ただ、どうしても言葉だけが独り歩きしている印象を受ける。

批判的思考と批判するという行為は決して同一視されるべきものではないし、さらにいうと、批判と否定は全くの別物である……はずなのに、批判的思考に裏付けられた否定=批判と考えている(ように見受けられる)人はわりとよく見かける。

なるほど批判的思考に基づいて導出した結論が、ある命題Aを否定するものであった場合、それはAの批判といえるかもしれない。けれども、批判的思考に基づいた判断であることが命題Aを問答無用に否定することを正当化するかといえば、たぶん違う。

 

思うに、批判はコミュニケーションの一形態だ。

発信者と受信者があるところにコミュニケーションは成立する。生身のコミュニケーションならば言葉以外の方法もあるけれど、発信者と受信者が直接対峙しないコミュニケーション手段が盛んである現代において、その中心にあるのは言葉であり、表現である。

発信者がどういう表現を選択するかで、受信者が発信者に対して抱く印象は、まったく違ったものになる。印象は、言葉に内包される「意味」に先行する。どんなに内容が正しくとも、選んだ言葉の如何では、内容に関する議論に到達しないことだってあり得る。だからこそ発信者はどういう印象を与えたいか、あるいは受信者がどういう印象を抱きうるかを考慮したうえで発信することが必要となってくる。

日常生活レベルでは深く考えなくても、なんとなくお互いが意を汲み取ることで円滑に進む場合が多い(それがうまくいかないと喧嘩になったりする)けれども、失敗例としてわかりやすいのは、最近話題の農水省大臣の「冗談のつもりだった強行採決発言」などだろうか。もちろん政治家に限らず、不特定多数の人を相手にした非相互的なコミュニケーションでは、発信者の意図から離れて解釈されていきやすい。受信者の数だけ解釈は発生しうるから、それを完璧にコントロールするのはもちろん不可能なのだけど、だからと言って開き直るのは、私はあまり好きではない。

私が強い言葉を使う人を警戒するのは、他の意見を最初から受け入れる姿勢を持っていないような印象を持つからだ。その人が本当は、他者を受け入れるつもりがないわけではなく、然るべき反論を真摯に受け止める人であったとしても、だ。そう見えてしまった時点で、話は始まらない。少なくとも私は、そういう人と対話したいとは思わない。言いたいことがあっても、飲み込む。

批判は、議論の余地があるところに存在する。批判がコミュニケーションの一形態であると考えるのは、それゆえだ。そして議論というのは、考えに優劣や正誤をつける勝負事でもなんでもなくて、対立する複数の意見を止揚する営みであってほしいと私は思う。そのためには、相容れない意見を尊重する姿勢が何よりも大事だと思うし、そうせずに自分の主張だけを投げて、「どう受け取るかは君たち次第ですよ」みたいな姿勢には、どうしても抵抗を感じる。

というか、これは僻みなんだけど、よく自分の主張をそんなに信じられるなあと思う。結局自己肯定感の話に収束するのだが、私は周りの人たちよりも自分が劣っていると思っているから(そこだけは信じて疑わないんだから全く矛盾だ)、何かに違和感を感じた時に真っ先に批判的思考(とよぶのは烏滸がましいけど)を適用する対象は自分だ。だから、他者を批判することを前提に議論したがる、食って掛かるような物言いをする人たちは、理屈とかじゃなく本能的に怖い。理解できないから。

ということで、ここまで盛大なブーメランを書き綴ってきたわけだけど、そもそも、議論にならないものがこの世にはあふれているということを、忘れている人が多い気がする。そこが、最近ツイッターなどでちょくちょく見かける、過剰なポリティカル・コレクトネスの追求に対する嫌悪感とも関連しているのかもしれない。

 

私は、自分に自信がない。自分の思考に信用をおいていない。なけなしのちっぽけな脳みそで考えたことを、頭の良い人たちにあっさり否定されるのが怖いから、普段自分の考えをはっきりと口に出すことはしない。そもそも誰かに否定されるまでもなく、自分で自分のことを散々否定しつくしてるんだからあえて傷口を広げるようなこともしたくないし、自分の言うことなんてどうせ簡単に論破されるに決まっているのだから、何も言わない方が波風立たなくて楽だ。

そうやって、もっともらしいことを声高にいう人に劣等感を抱きながら、わだかまりを抑え込んでごまかしてきた。自分の言葉ではなく、自分が漠然と思い描いていることと似たものを、私よりもずっと正確に表現している人たちの言葉を借りて、リツイートして、自分の意見を持っているかのように装っているだけの卑怯者であり続けてきた。

 

でも、いい加減うんざりしてきた。

私は政治のことなんか、社会のことなんか、何も知らない、社会人のなり損ねだ。論理的な思考能力も中途半端にしか身についていない、クリティカルシンカーのなり損ねだ。

でも、じゃあ、そういう人間は何も言っちゃいけないんだろうか。何も感じちゃいけないんだろうか。そうじゃないはずだ。私は矛盾を抱えて、その矛盾に自分で苛立ちを覚えながら、それでも社会の構成員として、思考と感情を兼ね備えた一人の人間として生きている。

私の所属するコミュニティの中では私は出来損ないだけど、それじゃあ出来損ないではない理想的な人間が、社会を見渡した時に一体どれだけいるっていうんだろう。案外私のような、不完全な人たちで、社会ってのはできてるんじゃないんだろうか。

優秀で、論理に裏付けられた強い言葉を使う力を持つ人たち以外を認めない空気が流れているから、優秀じゃない私は、変化を求めることも、行動を起こすことも、前に進むことも、諦めたくなる。もういいや、どうせ自分には無理だもの、なんて思いたくなる。

うんざりだ。こんな人間には一人前に言論を唱える資格などないのだからと言い訳を続ける自分にも、そう思わされてしまうような論理偏重のこの社会にも、うんざり。人間は、論理的なだけの生き物じゃない。ポリティカルにコレクトに、生きられるわけ、ねえだろ!

(と言ってはみるものの、ポリティカル・コレクトネスの追求はやはり為されるべきだと思っているし、私は私にできる範囲で、自分が正しいと思うことを追求していく。ただ、その「正しさ」を他人にも求め過ぎるあまり、押し付けられた人が拒否反応を示してしまうことになるわけで、自分が正しいと思うことをできていない人に対して、もっと寛容になる必要があるのかもしれない。自戒を込めて)

 

やっと生きていくことに目が向くようになってきて、今まで、自分がいかに綺麗に生きようとしていたのかを自覚した。綺麗に生きることに拘泥するあまりに、そうなれなくて自己嫌悪に陥っていたけれど、そもそも生を美化しすぎていただけだった。生きることって、もっと無様な営みなんだなと思うようになった。

だから、矛盾だらけで論理破綻した感情的な思いつきであろうと、それをみっともないと嘲笑する人がいようと、私は私が感じたことを否定しないと決めた。 

私が私の感じたことを否定しないように、私と相容れない人たちが何かを感じることも、私は否定しない。だから、議論にはならない。永遠に終わらない、不毛な平行線でしかない。私はこう感じる、あなたはこう感じる、それで終わりだ。そこに正しさなんてものはなくて、各々が正しいと信じているものがあるだけだ。

議論をしたいんじゃ、ないんだ。論理的であることにこだわらないことにしたんだ。

理解できないものがある。自分とは違う考え方をする人がいる。そこにやたらめったらに優劣だとか、正誤だとかいう概念を持ち込むのは、ものすごく、傲慢だと思う。

 

ということで、がっちがちに保険をかけまくった、盛大なブーメラン記事でした。いやぁ、不毛だ。自分で書いていて笑っちゃうくらいに。だから批判は嫌いなんだ。