非実用的な生活を愛したい

働きはじめて7ヶ月が過ぎた。自分が成長していると思えない。飲み込みが早い、と上司たちは口をそろえて褒めてくれる。彼らが一体私の何を評価してくれているのか、私だけがわかっていない。私の話なのに。仕事が楽しくない。定時上がりとはいかないにしても毎日19時には会社を出られるし、給料は悪くないし、休みだってちゃんと取れるし、一緒に仕事をする人たちも優しいし、服装も自由だし、職場としては全然悪くないと思う。これだけブラック企業が話題にあがる世界において、文句を言う資格なんてないくらいだ。

それでも、起きている時間の半分が会社に奪われることがただ我慢ならない。読みたい本があって、聴きたい音楽があって、観たい映画があって、旅をしたい場所があって、観たい絵があって、書きたい文がやまほどある。それなのに、起きている時間の半分働いて、残りで生活のことをして、それで精一杯だ。

最初から、働くのはお金を稼ぐためと割り切って入社した。私が今の会社を選んだ理由は、給料がそれなりで、人権意識がしっかりしていて、日本で働けるから、それだけだ。仕事の中身なんて、どうでも良かった。だから「なぜうちの会社に入ったの?」と尋ねられるたびに、私は答えに困る。最大の妥協点だったから、なおかつ、採用してくれたから、などと言うわけにはいかないから、いつも曖昧にごまかして笑う。

一度、仕事のことを相談したくて、父と二人で飲みに行ったことがある。父は家で一切仕事の話をしない人だったから、私は父がどんな仕事をしているのかをそのときに初めてちゃんと聞いた。大げさに聞こえるかもしれないけど、僕は本気で世界を変えたいと思っているし今やっている仕事は確かに世界を変えられると信じている、と誇らしげに話す父のことを、とても格好いいと素直に思った。とてもじゃないけれど、楽しくないと思っていることは話せなかった。私が働きはじめたことを、そうして娘と仕事の話ができるようになったことを、彼が嬉しく思ってくれているのがよくわかったから、ごめんと心の中で謝った。

生きていくにはお金がかかる。私はどうしても親に頼らずに生活をできるようになりたくて、入社して2ヶ月くらい経った頃から、半ば見切り発車で一人暮らしを始めた。補助してもらった引越し費用はまだ返済できていないけれど、それを除けば私は物理的にも、金銭的にも一人で生きている。親に大事に大事に育てられて(それを責めたいわけじゃない)自分で生きている実感を失っていた私にとって、自分が今ちゃんと自分の足で歩いているという感覚はすごく大事だ。だから、家賃も、水道代も電気代もガス代も、食費も税金も、働いて賄わなくちゃいけない。

好きなことをするにもお金がかかる。アイドルの追いかけ方にも色々あるけれど、私はとにかくコンサートという空間が好きで、時間とお金が許す限りその場にいたいタイプだから、余計にどうしようもない。

私は働かなくちゃいけない。働く以外の選択肢がない。だって、生きることを前よりも受け入れはじめたから。生きていくなら、好きなことをしていたいから。なのにこれじゃまるで、会社に行くために生きてるみたいだ。数字、数字、数字。売上。業績。利益。押しつぶされそう。うるさい、って卓袱台をひっくり返してしまいたい気分だ。

会社は、お金を稼ぐための組織だ。そんなことはわかっている。だけど誰も彼もが金稼ぎのために役に立つかどうかだけで全てを判断する世界が、私には気持ち悪くて仕方がない。私はお金がほしいから働いているのじゃないのだ。私はときめくために生きている。私のときめきは生物学であり、哲学であり、文学であり、芸術であり、アイドルであり、この世界のあちこちに散らばる美しいものたちだ。私がときめくための諸々を手に入れるためにお金が必要なだけで、お金そのものに価値があるとは思っていない。なのに、みんな、お金が大好きらしい。お金が大好きで、それ以外は二の次らしい。

会社の研修で、プログラミングを勉強したことがある。やってみるのは初めてだったが、とにかく楽しくて楽しくて仕方がなかった。新しい言語を学んでいるみたいで、話せる文法が増えるたびにわくわくした。同じ研修を受けていたメンバーの中では、経験者を除けば私が一番出来が良かったと思うし、講師にも評価してもらっていた。もっともプログラミングの技術は直接私たちの職種に関わるものではなかったから、言うなれば教養として、「知っておくに越したことはない」という位置付けでみんなとらえていた。

その時、一緒に研修を受けていた同僚に、「なんでそんなにモチベーションを保てるの?」と尋ねられたことがある。私は「楽しいから」と即答した。するとその同僚は理解できないという顔で「俺、役に立たねえことは楽しめねえんだよな」とこぼした。びっくりした。私はプログラミングの研修を受けている間、それが役に立つかどうかなんて一瞬たりとも考えたことがなかったから、そういう考え方もあるのかと思った。そして、営利目的の企業で生きるうえでは、彼の考え方のほうがよほど合理的な正解なのかもしれないとも思ったのも覚えている。

マキノノゾミの『東京原子核クラブ』という戯曲が大好きなのだが、その同僚との会話を思い出すたびに、その戯曲を思い出す。

物理学者の小森という青年が、巷で話題になっている新劇を見たことを同じ下宿に住む売れない劇作家の谷川に話す。小森が家族を題材にしたその新劇にひどく感動したと言って、谷川を激怒させるシーンだ。

谷川 お前、その『おふくろ』って芝居観てどう思ったんだ?
小森 どうって……ああ、おふくろさんは大変やなあ、と。(中略) 自分も、親孝行せにゃいかんなあ、と。
(中略)
谷川 いいか。作家、芸術家ってのはなァ、高邁にして世俗の塵にまみれず孤高己を持してるもんなんだ。それが、そんな修身の教科書みてえな下世話なる実用的効能を生んだとなってみろ。俺だったら恥ずかしくて首をくくりたくなるね。(中略) お前たち科学者は何かと言やァこの実用的効能ってやつを振りかざすからな。(中略) いいか、芝居はな、いつだって芝居のためだけにあるんだ。それ以外に何の役にだって立っちゃいけねえんだッ。

── マキノノゾミ『東京原子核クラブ』 2008年 ハヤカワ演劇文庫

この小森も、実際のところ谷川が非難するような実用的効能を求めた科学者だったというよりは、純粋に物理学に魅せられた人間だと私は解釈したので、このふたりは本質的には似ているのではないかとも思うが、それはさておき谷川のこのセリフに私は強く共感する。

谷川にとっては芝居そのものが目的なのだ。そして、小森が「修身の教科書みてえな実用的効能」を得た、すなわち自分にとって目的であった芝居が、単なる手段としてとらえられたと思ったから谷川は憤ったのだろう。

自分の職種から縁遠いからとそこに価値を見いだせなかった彼にとってもまた、プログラミングは手段に過ぎなかったのだろうと思うし、たぶんそう考える方が自然だ。というか、プログラミングを発明した人だって手段だと思っていたはずで、むしろ私のようにそれ自体に愉悦を覚える人間のほうがレアかもしれない。

実用的効能を賛美し、役立たずを切り捨てる価値観はなるほど合理的だけど、冷酷でもある。あいつは使えないと眉をひそめる上司を見ると、自分のことではないのに、心臓が握りつぶされるみたいで怖い。

言葉で塗りかためて論理武装しがちだけれど、その実私は人間の感情や感覚を重んじるし、そういうところからうみだされる生々しさを伴った作品を愛している。それが美しいと思うからだ。美しさとはとかく非合理的なのである。

生きるために働くのだと歯を食いしばったところで、あと何年この生活が続くのだろうと思うとうんざりする。私は私の時間をそんなものに費やしたくない。だったら死んでしまったほうがマシだろうと思う。

それでもめっきり死にたいと思わなくなったのは、いっそもう生きていないからなのかもしれない。