鏡よ、鏡

過去の自分の文に憧れてばかりいる。もうこういう言葉は紡げないかもしれない。そんな焦燥感に襲われて、また1日が過ぎていく。すごく嫌だ。『アルジャーノンに花束を』の主人公チャーリイは、自分が衰えていくことを自覚していただろうか。自覚していたのなら、きっとこんな気持ちだったんじゃないかと思う。自分が劣化していく感覚。劣化していることはわかるのに、それに抗う術を知らないことの悲しさ。このまま社会の構成員として正しく生きていく限り、私が愛してやまない私の鋭敏さは過去のものになっていくんだろう。生きていくことは受け入れ始めたけれど、どうして自分の鈍化まで引き受けなくちゃならないんだろう。それならやっぱり、私が私でなくなる前に、命ごとき。そう思ったところで、生を手放す勇気なんてない。昔からずっとそうだ。

一年ほど前、創作を書き始めたばかりの頃に書いた文だ。いいなあ、おまえは。一年前の自分を羨んでいる。お金はなかった。時間はあった。書く時間が、あった。恋しい。

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入社が10月に決まった。2か月半後だ。
昨年9月に大学院を休学してから1年弱、今まで生きてきた23年間と半年の間で、一番「非生産的」な時間の使い方をした、と思う。もっともそれは短期的な視点で見ればの話で、今後数十年生きていかなければならない、自分と付き合っていかなければならないことを考えると、この時間を振り返ったときに絶対に無駄ではなかったといえるだろうとは思っている。

それでも、「この1年間何もしなかった」という自責の念はなかなかに厄介だ。だから今、「残された2か月半で何かをしなければ」という焦燥に駆られている。その「何か」が自分で何を指すのかもわかっていないというのに。はっきりしているのは、おそらく何をしようとも、「自分は何かをした」と自ら認めてあげられることはきっとない、ということだ。私は理想が高すぎるきらいがあるからだ。

鬱のようなものに悩まされるようになった頃から、私は自分のことが嫌いなんだと思い続けてきた。ところが最近になって、自分のことを好きか嫌いかと、自分のことを認めることができるか否かというのはまったく別物であることに気が付いた。

「なんだかんだ自分のこと好きでしょ?」と言われたことは一度や二度ではない。そしてそれは、あながち間違いではない。人前で「自分のことを好きである私」として振舞うことが多々あるのは自覚しているし、なんなら意識してそう振舞っていることの方が多い。そしてそう振舞うことが出来る以上、その要素は確実に私に内在していると思う。現に、自分の好きなところを挙げてみろと言われたら、すぐにいくつかは出てくる。

じゃあ自分のことが嫌いだと思っていた、その感覚の正体はなんだったのか、というと、「自分に納得できない」がたぶん正解に近いんじゃないかと今思う。自分を褒められないのだ。何かを成し遂げたとしても、「もっとああしておけば」「こういう風にできたんじゃないか」「なんで思いつかなかったんだ」と考え始める。妥協が下手、というか現実と折り合いをつけるのが下手だ。

一事が万事そんな調子だから、常に自分に対してもどかしさを抱えていた。
けれど、最近それが少しだけ変わりつつある。


最近、文章をよく書いている。もっと正確に言うなら、小説を書いている。目が覚めてから眠りにつくまでそのことしか考えていないといっても過言ではない。エネルギー配分というのが昔から致命的に下手な人間なので、食事や睡眠も含めて、ありとあらゆることをそっちのけでのめり込んでいる。

書くという行為にエネルギーを傾けるようになってから、今まで感じたことのなかった「満たされている」という感覚を知った。ずっと自分には何かが足りていないと感じて生きてきたから、この感覚は私にとって新鮮で、そして幸せなものだった。

書いたものをこっそり公開するために作ったツイッターのアカウントは、日に日にフォロワーが増えている。私が書いたものに感動したとか、最高だとか、もっと続きが読みたいとか、そんな言葉をもらう機会も増えた。つい先日には、アイドルについて書いた記事がバズったこともあった。もともと文章を書くのは好きだという自覚はあったけれど、立て続けに承認欲求が満たされているから楽しい。自分の書く文章は結構(いや、かなり)好きだし、好きだから書いているのだが、やはり他人から評価されるのは素直に嬉しいものだ。

だからその「満たされている」と感じる幸せは、「他人に評価されている」というところに起因しているのだろうと、思っていた。昨日までは。

違うかもしれないと思ったのは、某飲料メーカーの炎上CMの一件がきっかけだ。

不愉快な映像だった。ただそれに尽きる。こんなものがまかり通ってしまうのか、と唖然とした。あのメーカーのビールはそれなりに好きだったのだが、正直しばらく買おうとは思えない。その不愉快さ、「こんなのありえない」という感覚、それらは紛れもなく私が感じたものである、はずだ。


でも、こういうことが話題に上がるとき、私は決まって不安になる。

「誰もおかしいと思う人はいなかったのか」
この手の炎上で、必ずといっていいほど目にする批判のフレーズだ。志布志市のウナギ少女のあれも、ユニ・チャームのワンオペ育児礼賛のあれでも。そして私はそれに「そうだそうだ!」と思う。

でもさ、と心の片隅でもう一人の自分が言う。
果たして、自分がそのCMの制作側の人間だったとして、私はその「やばさ」に気付くことはできたのだろうか。傍から見たら明らかなものであっても、中からは見えないことなんて、世の中いくらでもあるだろう。私は、そこに気付ける自信がないのだ。

いや、そんな仮定をしなくたっていい。
私がこの映像の存在を知ったのは、友人が「気持ち悪い」とコメントをつけてツイッターにシェアしていたからだ。つまり、観る前から私はこの映像が不快なものであるという認識を持っていたということになる。もし彼女が、何らかの肯定的なコメントを付けてこの映像をシェアしていたら、私は気付くことはできただろうか。「下ネタじゃん、ウケる」で終わらせていたんじゃないだろうか。先入観とはそういうものだし、私はやっぱり見抜ける自信がない。

もし私が、この映像を創るチームにいて、周りが「これめっちゃいいじゃん」っていう人たちばかりだったら、私もきっとこれを良いものだと思っていた。私の周りの人たちが、この手のものを楽しめてしまう人たちだったら、私はきっとこれに疑問を覚えることはなかった。私が日頃リベラルなフェミニストとして思考し発言するのは、結局のところ周囲のトレースでしかない。

価値観の形成なんてそんなもんだといわれるかもしれないけれど、それって、考えてみたらすごく怖いことなのだ。考えている私は何者なのか、誰でもないんじゃないか。周りの人の断片的な寄せ集めで出来ているだけで、魂としての「私」なんてものは存在していないんじゃないだろうか。SF的なことを言えば、外界からのインプットを同じにしたら、私と同じような行動をし、私と同じような発言をするマシンができると思う。私がたびたび「自分の人生は親の課金で作られた」と表現するのも、親の選択が、そのマシンのアウトプットを決定するための条件の一つにしか思えないからだ。

じゃあそのマシンと、人間であるはずの自分とを区別しているものって一体なんなんだ。それとも、違いなんてないんだろうか。

さっき、「自分には何かが足りていないと感じて生きてきた」と書いた。それは、完璧な人間など存在しないとか誰しもが欠点を持っているとかそういう月並みな話をしたいのではなくて、自分が生きているのかどうかがわからない、という感覚だ。

自分が喋っている。しかしそれは本当に私の言葉なのだろうか。自分が感じている。しかしそれは「こう感じるのが最適解だ」という演算結果に過ぎないのではないか。自分の存在に確信が持てない。ずっと、ずっと、ずーっと、もやもやと抱え続けてきた。

先日、久々に会った友人と食事したときに、さらりと相手から出てきた言葉がある。
「僕は自分のことを個性的な人間だと思って生きてきたからさ」
怖いくらいに共通点の多い間柄でありながら、ともすれば自己否定に走りがちな私と、安定した彼とは確実に違うものがある。その違いが、仲良くなって以降長いこと不思議だった。インプットが似ているのに、アウトプットが全然違うのだから。その答えが、件の発言にあるのかもしれない、とふと思った。

彼に、私は自分のことをいたく「普通の」人間だと思っている、と言ったら、即座に否定された。以前別の友人にも「それはないわ」と一笑に付されたことがあるから、少なくともその二人に言わせる限り、どうやら私は普通ではないらしい。

そもそも「普通」の定義をし始めたらきりがないけれども、確かに友人たちの言いたいことはわかる。内定者懇親会にあえてノースリーブを着ていくくらいの度胸はあるし(周りはかっちりスーツだった)、自分はバイであると公言して憚らないし、まぁ、「普通」ならしないであろうことをしたり言ったりしている心当たりは大いにある。

でもそれらはきわめて自覚的に行われるもので、その実、「何者でもない自分」を何者たらしめるための行動なのだ。あえて「普通ではない」とみられる言動をすることで、没個性な自分から目を逸らしているのである。ファッションメンヘラっぽさがあるのもその辺が関係していると思う。

つまりだ、今まで言葉を雑に使っていたせいで気づかなかったけれど、私は自分のことを普通だと思っているというより、個性のない人間だと思っていたのであって、そこが自らを個性的な存在だと言い切る彼との一番の違いだ。

では個性とは何かというのもまた曖昧な議論だが、現時点で私が考えている個性とは、「その人しか持ちえないもの」。

クリエイティブな人たちが昔から羨ましかった。絵を描ける人、音楽を創れる人、あるいは日常から笑いを生み出す芸に秀でた人。何かを生み出せる人々に、強烈な憧れがあった。それに引き換え、マシンで代用可能な私は没個性的だ。人の意見を、少しだけ言葉を変えてあたかも自分のものであるかのように発信するだけの変換作業をしている私。

或いは鏡のようでもある。色んな方向から来た光をはね返して、その光たちが結ぶ像は確かに私の姿をしているのだけど、でもそれは実体じゃない。


でも、文章を書くときだけは違う。

文章を書くことで私が得ている「満たされた」という感覚は、承認欲求ゆえではない。

そりゃ、私の語彙は今までの人生で培ってきたものだし、考えつくストーリーだって、今まで触れてきた作品の影響を受けている部分は多くあるのだろう。でも、表面を反射するだけの単純な変換作業じゃない。外的要素は私の奥深くを経由して、私の存在そのものを織り込んで、それをもう一度言語として再構成する。幅が広いとか、特別独創的な発想をするとかいうことはない。それでも、私にしか書けないものを書いている、という確信がある。そうして生み出した成果が評価されるのは勿論嬉しいに決まっているのだけど、それはあくまで副次的な幸福だ。

やっと、自分の存在を正当化するだけの個性を見つけた、と思う。すごく嬉しい。

あと2か月半。きっと、気ままに言葉と戯れる時間は、働き始めたらない。大事に大事に、書き続けたいと思う。