閃光となれ

雨の日は好きだ。台風の日はいっとう好きだ。電車が運休になるかもしれないからと定時退社を促され、普段よりも早い時間に帰途につきながら、今日こそは文章を書こうと思った。日毎思うように言葉を紡げなくなっていく恐怖は、書くことでしか癒えないのを私はよく知っている。部屋の中で聴く雨の音は、頭に浮かぶ余計な考えの切れ端を洗い流してくれるから、書くのにうってつけだ。まだ風はそんなに強くないから、窓ガラスが雨音を遮ることもない。夏に似つかわしくない、ひやりとした空気がカーテンの裾から流れ込んでくるのが心地よい。かねてから書こうと思っているテーマはいくつかあるけれど、どれも腰を据えて論じる気分にはなれなかったから、ただ思いつくままに書いてみる。

息をするように、死にたい、と思う。それはたとえば試験が散々な出来だった時や、日曜の夜ふと訪れる翌日が月曜日だという実感が迫ってきた時やなんかにふと口をついて漏れる呟きほどには軽くはない。かといって、いつだったかの私が抱えていたような、猛スピードでトラックが走り抜けていく道路や急行電車が通過していく線路に引き寄せられていくような切羽詰まった死にたさとも違う。

本来の意味は随分と鋭いわりに、口触りの良い言葉なのはなぜだろう。色々な濃さの死にたいを目にする。耳にする。口にする。悲痛な色を伴ったものも勿論ある。だけど大半は、現実逃避の願いが形を変えただけのものだろう。今、この瞬間が苦しい。やりきれない。だけど、とことん未来に絶望しつくしているわけではない。この先にも楽しいことが待ち受けていることをきちんと承知していて、それでもなお今をやり過ごすために口をつく言葉。今ではないどこかに行きたい人のためのまじない。

誰かが言った「死にたい」に、私も「わかる」と返す。私もそう思っているから。だけどその人の思う死にたいと、私の思う死にたいは違う。本当は全然わかりあえていない。でも、べつにその関係において大事なのは同じ感覚を共有することではないから、それでいい。その死にたいはどういう死にたい?だなんて聞き返すだけ野暮で、「死にたい」と「わかる」で成立する会話は、私達の抱える形のない想いの「見た目」が一緒であることを確認するための行為に過ぎない。「死にたい」という言葉に縁取られた箱の中身に入っているものは、相手にとって大した意味を持たないのだ。

相手が求めている形の箱をあっちからこっちに転がすだけのコミュニケーションはそう難しいものではないけれど、退屈だ。誰も彼も箱しか見ない。おもしろくない。全然、おもしろくない。その箱の中に潜む色の濃淡こそ私が惹かれるものなのに、そんな危うさは社会では好まれない。形の整った箱が私の口からこぼれていく。その中に私はいない。死にたい。わかる。それな。ほんとそれ。

一秒たりともこの世界に生きていたくないと全身が悲鳴をあげるような痛みは、いつの間にか綺麗さっぱり消えてしまった。どうしたら死ねるかよりも、どう生きていくかについて割く思考の割合がずっと大きくなった。そう、私は生きていくことを、この世界に自分が存在し続けることを、前よりも赦せるようになっている。思っていたよりも世界が怖いところではないと思えるようになったからかもしれない。

それでも、やっぱり死にたいと思っている。それは、決して今から逃げ出したいから、だけじゃない。未来からも逃げ出したいのだ。私は、私自身の未来を背負いたくない。老いていく体を抱えて生きていたくないのもそうだけど、何よりも、自分の頭脳が、意識が、この先衰えていくことを許容できない。

過去の自分よりも、今この瞬間の自分の方が賢い。その感覚は私をずっと支えてきた。あの時理解できなかったことが、今はすんなり頭に入ってくる。聞きかじった知識を、自分の言葉で再生産できるようになった。そういうことがあるたび、今の自分が過去最高だ、と思う。だけどその喜びは、常に恐怖と隣合わせだ。今この瞬間が、放物線の頂点かもしれない。この先にはもう、落ちるだけなのかもしれない。

その恐怖が、現実になりつつある感覚がある。思っていたよりも、ずっと早い。

思ったよりも世界が怖いところではないと思えるようになったのは、感覚を閉じているからだ。私を傷つけるものから目を逸らして、強さを演じて、大事なものを犠牲にしなければ、やっぱりこの世界では生きていけないのだ。

傷つかずにすむようになったのと引き換えに、私は私の言葉を失いつつある。劣化している。昨日の私よりも、今日の私のほうが下にいる。過去の自分に憧れるのは辛い。この先もこうして生きていくことを選ぶならば、昔の自分の鋭敏さを取り戻すことはきっとできないとわかっているから。

年を取るのは、怖い。私は今、輝ける絶頂の私を目一杯愛して、それでもう、死んでしまいたいのだ。熾火のようにしぶとく暗い炎を放つのもまたひとつの美しさだとしても、ひときわ強い光がふつりと途切れる儚さに憧れるのだ。