向日葵と鉄仮面

推し、という概念は難しい。ひとりの人を好きになるにも、色々な「推し方」がある。恋をする人もいる、親の目線で愛する人もいるし、信仰の対象にする人もいる。推しになりたいのだという人もいる。わたあめで作った雲にそっと浮かべてあげたい、と表現していた人を見たこともある。人ってこんなにいろんなやり方で誰かのことを愛せるんだなあ、と思う。

私には今、推しと呼ぶ人がふたりいる。セブンティーンのジュンと、ペンタゴンのジノだ。そのふたりに向ける感情は、それはもう、全然違う。違う人間を好きになっているのだから当然なのかもしれないけれど、でも、あまりに違いすぎて、推しという言葉でくくることに違和感を覚えることもある。

事実、推し、という曖昧な言葉を使う時に自分の中でしっくり来るのは、ジュンの方だ。本当は人間として生きる彼を神様として扱うことには罪悪感があるのだけれど、それでも私が彼に向けるのは盲目的な信仰心に近い。憧れは理解からもっとも遠い感情だよ、とは某少年漫画の有名な台詞だけれど、私は結局ジュンという人間を見ているようで見ていないし、彼を好きでいる限り罪の意識とか苦しさみたいなものはきっとなくならない。それでも、この気持が続く限りは私がこの腕に抱え込めるだけの愛を全部彼に向けたいと思っている。彼を愛せることが幸せだと思っている。それが永遠ではないと知っているからこそ、余計に。

ほかに形容できる術を持たないからジノのことも推しと呼ぶ。彼は紛れもなく私にとって特別だ。それは確かに推しの定義のひとつなんだろう。だけど、なんだろう、どんな姿を見ても尊いと思うとか、そういうことはない。小柄な体と可愛らしい顔立ちを生かして可愛いアイドルとして振る舞う彼のことを見ても、胸がぎゅうとなって枕を抱えてのたうち回りたくなるような衝動には襲われない。可愛いとは思うけれど、それは雑誌の表紙を飾るモデルを見て可愛いと思う感覚と変わらない。端的に言ってしまうなら、興味がないのだ。好きになったばかりの頃は可愛い!と騒いでいたはずなのに、いつの間にこうなったのか自分でもよくわからない。歌っている時の彼、歌について話す時の彼にだけ全熱量が向いている感じ。推し、というのはやっぱりちょっと違うような気がする。

ジュンと違って、ジノのことはちゃんと人間だと思っている。住む世界が違う、とはあまり思わない。かわりに私と同じ人間だ、という感覚がはっきりとある。愛したい、と思っていない。愛でる対象ではないのだ。尊敬はしても、憧れはしない。彼に向ける感覚は、いわば、好敵手と呼ぶのが近いかもしれない。私は歌う人ではないけれど、彼が歌を愛するように、私も言葉を愛している、それはきっとほとんど執着と表現する方が正しい。愛するものに対峙する時の姿勢が自分と似通っているように思う、と言い切ってしまったら流石にあまりにも傲慢すぎるかもしれないけれど。私は、ジノと対等でいたいと思っているのかもしれない。

対等な立場で会話をしてみたい。歌に対する想い、そこにまつわるどろどろした気持ちも含めて、彼の言葉で聞いてみたい。ものすごく厄介だと思う。あなたの歌が、あなたの歌への愛が好きだと伝えるだけでは満足できないということだから。たかだか1秒にも満たない会話で何ができるというのか。私たちは、つかう言葉も違うのに。友人として出会いたかった、と思う。アイドルとファンという形でしか出会えなかったことが悔しいと思う。

私は別に一緒に写った写真がほしいわけでも、サインの記された紙片がほしいわけでもない。触れてほしいわけでもない。それでも彼はアイドルで、私はファンだ。残念ながら、この世界線では友人にはなれない。たとえ1秒でも、彼と言葉を交わすには、その場しかない。だから行く。

写メ会の参加券付きのCDの予約を忘れた。当日販売に一縷の望みを託して、手ぶらで会場に足を向けた8月19日。当日販売はあっさり終了した。色んな要因が重なって、ジノとの写メ会を求める人ばかり会場に溢れていた。コインでスクラッチカードを削り、推しが出て歓声を上げる人々や、交換が決まって弾んだ声で礼を交わす人々を横目に見ながら、何度も諦めて帰ろうと思った。それでも思い切りがつかずにあと10分、あと10分と「求 ジノ」と書いたスケッチブックを掲げ続けた。少しでも可能性があるなら、と「定価の倍以上でも」と書いたのはほとんど自棄だった。腕が疲れてダメになったら帰ろう、と思った。

「ジノさん、定価で買い取ってもらえませんか」

そう声をかけてくださった人に、たぶん私は変な生き物をみるような視線を向けてしまったんじゃないだろうか。もし、万が一、これを読んでくださるような奇跡みたいなことがあるのなら謝りたい。何度も何度も、「本当に定価でいいんですか?」と確認してしまった。夢を見ているんじゃないかと思いながら、確かに3番と記された名刺大の紙を受け取った。ジノとの写メ券を欲しがっている人なんていくらでもいたのに、どうして私を選んでくれたのかはわからなかった。たまたま目に留まっただけかもしれない。やけっぱちに書いた「定価の倍以上でも」に必死さが滲み出ていたのかもしれない。とにかく、そうして私はたった1枚の、ジノと写真を撮る権利を手に入れた。横にいた友人が良かったねえ、良かったねえと一緒に喜んでくれて、そう、すごく嬉しかった。届かないけれど、声をかけてくださった方、本当にありがとうございます。

譲ってもらったのは、17時半からの3部の券だった。時間まではまだ3時間近くあった。その時間で、手に入れた1秒をどう使うかを考えなくてはいけなかった。会場でジノの需要の高さを目にしてから、ほとんど考えるのをやめていたのだ。

今年の1月、生まれて初めての写メ会で、私は3回彼と写真を撮って、3回ともピースしかできなかった。イベントが終わってからツイッターに色んな工夫を凝らした楽しそうな写真が流れてくるのを見て、そうか、こういうものなのか、とショックを受けた。推しと一緒にポーズをする、なんて発想がなかったのだ。そういえば3回めで、ジノの方から「何かしますか」って声をかけてくれていたなと思いだして、何も出来なかったことにひとしきり落ち込んだ。もう写メ会があっても次は行かない、とすら思っていたはずだった。

それでも、彼と話したい気持ちが勝った結果、私は会場にいて、奇跡的にその権利を手に入れた。入れてしまった。はて、どうしたものだろうか。

3部までの時間を潰しがてら、たまたま新宿で遊んでいた友人と合流するために一旦会場を離れながら、電車の中で「推し ツーショ ポーズ」で検索した。しっくり来るものはなかった。なんだか、どれも恋愛感情を想定したポーズばかりだったのだ。そういうことじゃないんだ、と思いながらブラウザを閉じた。私はジノに女の子扱いしてほしいわけじゃ、断じてない。ましてや、アイドルであるジノがするのはともかく、自分が一緒に可愛いポーズをした写真が永遠に自分の端末に残るのなんて、何かの罰ゲームだとしか思えない。かといって、ネタに走れるようなギャグセンスのある人間でもない。思いつかなかったら、またピースでも良いや。そう思いながら新宿駅で電車を降りた時、つい先日、2度目のミュージカル出演が決まったばかりだったことを思い出した。

待ち合わせ場所の定番になっている新宿南口の改札前の花屋で、向日葵を主役にした明るい花束を選んだ。「喜んでもらえるといいですね」と笑顔で花束を渡してくれた店員さんは、私がアイドルに会いに行くとは思っていなかっただろう。

スタッフに携帯を手渡し、後ろ手に隠していた花束を差し出すと、ジノは驚いた顔をしてくれた。ミュージカル出演、おめでとうございます。私がぎこちない韓国語でそう言うと、ありがとうございますと微笑んで、花束に手を添えてくれた。撮り終えてブースを出る直前、観に行きますというと、にっこり笑って手を振ってくれた。

花束の傾きが足りなくて、せっかくの向日葵はあまり綺麗に写らなかった。喜んでくれたかどうかなんてわからない。彼が私に向けた笑顔は、きっと私の前の人にも、後ろの人にも向けたものと同じだ。アイドルとファンなんてそんなものだ。それでも、携帯に残った写真は、なんだか普通の記念写真みたいに見えた。衣装を着たジノと、カジュアルな格好の私はちぐはぐだったけれど、それでもアイドルとファンという関係性はあまり見えてこない気がした。ふたりの人間が写っているだけの、なんてことのない写真が愛おしいと思った。

おめでとう、という言葉に、私の思いなんて幾らも伝わっていないだろう。それでも、私という人間がここにいることを、一瞬だとしても知ってもらえたならいい。すぐに忘れられてしまっても、その瞬間だけでも対等であれたなら。今、私の部屋をぱっと明るくする向日葵の鮮やかな黄色が、ジノの気持ちも少しでも明るくすることができていたらいいなと思う。

今週末にはサイン会がある。先日のジノの人気をみる限り交換が見つかるのか不安だけれど、歌が好きだ、と私の目を見てきっぱり言い切った1月を思い返しながら、今度は何を尋ねようかと考えている。歌の話がききたい。歌のことを話す彼を見たい。