IDEAL CUT

終わった。終わってしまった。ぜんぶ、もう夢見ることしかできない、手の届かない思い出になってしまった。ねえ、寂しいよ。寂しくてたまらない。

5日間続いた夢から一夜明けた今日の仕事中、一緒に参戦した友人から写真が送られてきた。9月4日から昨日までの日付をアップにした手帳の写真だった。ジュンが考えた猫のキャラクターが、3日間を貫く矢印の上から顔を出していた。8日のところにも、楽しそうにバンザイするそいつが描かれていた。

「楽しみにしてたんだなあ、私」
「楽しかったなあ」

写真のあとにそう続いた彼女からの吹き出しにたまらなくなって、トイレに駆け込んで泣いた。

そう、私たちは遠足に行く子供みたいに、本当にこの日を待ち望んでいた。ずっと前から、この日を待っていた。

それが終わっちゃったんだ。

わかっている、彼らは私が泣くことなんか望んでいないのでしょう。それでも、もう少し寂しさに浸っていたい。だって、こんなに寂しいのは、こんなにも自分が欠けたような気持ちになるのは、それだけ彼らが埋めてくれていたものが大きいということで、それだけ彼らがくれた愛が大きいということで。楽しかった。本当に、この世界の幸せを全部凝縮したんじゃないかってくらい、最高だった。

5日間おんなじアーティストの公演に行くなんて、さっぱり理解できないという顔をされる。全部同じなんでしょう?そんなに行く意味あるの?あはは、まあ、普通そう思いますよね。でも、意外と違うんですよ。私は笑ってみせる。意外と、なんてもんじゃないよ、と心の中で思いながら。全然、全っ然違う。毎日毎日、嘘みたいに見える景色が変わる。毎分、毎秒、毎刹那、一瞬たりとも見逃していい瞬間なんてない。精一杯生きる彼らが、ひときわ眩く煌めく場所だ。

 

このブログは、初めてセブンティーンのコンサートに参加した2017年2月に作った。あの時のレポも全部終わらせることができないまま、もういつの間にか一年半も経ってしまった。彼らは変わったし、私も変わった。変わっていくことが怖くて、少し気持ちが離れていた時期もあった。コンサートが始まる前、心臓が口から飛び出るんじゃないかと思うほど緊張することもなくなった。その変化を、自分で悲しいと思うこともあった。好きでいることに慣れてしまった気がして、その尊さが薄れてしまったような気がして、そんな自分が嫌だった。


私が自分の言葉で書き残すことにこだわるのは、それが自分の存在証明に近いからだ。自分が、ほかの誰でもない、世界にたったひとり存在する自分を無条件に証明して肯定するたったひとつの手段が文章を書くことだと思っている。没個性的な人間になりたくない。他の誰かで替えの利く人間になりたくない。言葉にするという行為は、私がこの世界にいま生きていることを確認するためのものだ。

だから、自分が入った現場の、他人のレポを見るのが苦手だった。動画も、写真も苦手だ。自分が感じたものを、他の誰かも感じていること。自分が感じることのできなかったものを、他の誰かは感じていること。そういうものに、自分が感じたものまで蹂躙されているように感じてしまって怖かった。全部を手に入れることなんかできるはずないのに、自分の持っていないものを持っている他人が羨ましくて、自分が持っているものを他人も持っているのが嫌だった。傲慢だと思う。だってそれは、世界を自分だけのものにしたいと願っているってことだから。怯えていたんだ、世界から置いていかれちゃうみたいな気がして。

ジュンをこの目に焼き付けたいと思う一方でほかの子達の美しい瞬間を見逃したくないと思う気持ちもあって、何を感じれば自分が満足するのかもわからなくて、他人の感覚に対する羨望と嫉妬で薄汚れて、そのうち言葉にすることすら億劫になっていった。周りの人間の言葉が怖かった。自分の感じているものを肯定できなかった。無理して何かを感じようと躍起になっている自分も気持ち悪かった。今自分の目の前にあるものを愛せなかった。

彼らは、私を救ってくれるヒーローみたいだ。いつもいつも、私が勝手に腐っていくのを、「ほら、何やってんの」ってひっぱりあげてくれる。もう何度、そうやって助けてもらったかわからない。

アンコールVCRでウジくんが言っていた。理想的な瞬間は、まさに今だと。その言葉に、なんだか全部許されたような気がした。忘れたって、失ったって、全部を感じることも綺麗にとっておくこともできなくたって良いんだ。あの瞬間、大好きな彼らと、大好きな音楽を聴いて、跳ねて叫んで踊る瞬間を楽しいと思えたのなら、もうそれはこれ以上ないほどに美しい、理想的な瞬間だって、私も思った。楽しいと感じたことがすべてだ。それは私のもので、私だけのもので、それを愛し抜けばいい。

そういうふうに、思わせてくれたコンサートだった。
全部はとても書ききれなかったけれど、うまく言葉に落とし込めた曲だけ感想として残しておくことにする。実をいうと、ソウルコンのあとに書いた文章も結構混じっている。本当は、今回の日本公演のセットリスト1曲ずつ丁寧に思い返して言葉を綴りたかったけれど、たぶん納得できる文章が書き上がるよりも先に気持ちが風化してしまうから。そんなのはもったいなさすぎる。あの時感じたものも、今回感じたものも、偽物なんかではないから、一緒に残しておく。

 

HIGHLIGHT

暗闇を切り裂いて、一筋の光が刺す。そんな曲だと思っている。聴くたびにすっと背筋が伸びるような気がする。ざわついた音がすっとまとまって旋律へと変わる瞬間、眩い閃光が貫いて雑多にごった返した私の生活をそぎ落としていくような感覚。私にとってまさしくはじまりを象徴するその曲で幕を開けた舞台を、私は一生忘れることはないだろう。待ち望んだ会場に、最初に応えたのは、私が世界でいちばん大切にしたいと願う男の子の声だった。ハイライト。強調する。明るくする。彼らこそが私の世界に、光を当てる存在なのだと、まばゆいスポットライトに浮かび上がる彼らの姿を見て強く思った。

 

THANKS

ペンライトの遠隔操作機能が公演に取り入れられるようになってから、各曲のテーマカラーがよく見えるようになった。公演で初めて観る曲は、何色になるのだろうとわくわくするようになった。自分が思い描いていた通りの色の時もあれば、予想を裏切られることもある。どちらも楽しい。2曲目のThanksは、柔らかな橙色だった。

彼らはよく、舞台から見るペンライトの海の美しさを口にする。私には、その景色を見ることはできない。だけど、会場全体を見渡せる4階席の後方にいた私は、けっして彼らが目にすることのない景色を見た。暖かな橙の煌めく海の真ん中に、ひときわ明るく輝く彼らがいた。それだけで思わず目頭が熱くなるほど、それはそれは美しい光景だった。

 

날 쓰고 가라

VCRを挟んで3曲目は、ホシとウジが世界を撃ち抜いた。自主制作アイドルセブンティーンの作品を担う中核のふたりが魅せるステージの熱量は、凄まじいの一言に尽きた。ホシくんの額の血管が浮き上がっていて、そこに彼の意気込みを見た気がした。圧倒された。振り付けも、演出も、何もかもが桁違いだった。

これを書きながら、コンサートのセトリのプレイリストを聴いている。だけど、どんなに音量をあげても全然足りない。ドスの効いたホシくんの声が会場をびりびりと揺らすのも、ベース音が直接心臓を打ってくるのも、ウジくんの不敵な笑顔も、背中を預けあって踊るふたりの信頼が手に取るように見えるのも、会場中をターゲットにするかのように張り巡らされた緑色のレーザー光線も、あの空間にしかないのだ。

ステージのために作られた曲だろう、と音源を初めて聴いたときから期待していたけれど、それにしたって、あまりにもかっこよすぎた。俺を撃って行け、だなんてなんのつもりだと言うのだろう。撃たれたのはこちらの方だ。

 

Flower

休む暇なんかこれっぽっちもくれないのが彼らのコンサートだ。
スンチョル、ジョンハン、ミョンホ、ウォヌ、スングァン、ディノという組み合わせはちょっと珍しいなと思った。てっきりこの曲は떠내려가のように歌を重視した演出になるのかと思っていたのだが、がっつり踊るナンバーになっていたから、ソウルコンで初めて見た時には驚いた。

ディノちゃんが全部ひとりで作ったという振り付けは、痛みと儚さを纏うこの曲の歌詞によく合っていた。"You're my flower" という歌詞に合わせられた、ふわりと花を受け止めるような優雅な手首の動きに、息を呑んだ。本当にそこに花が見えたような気すらしたのだ。眩しく咲き誇る花ではなくて、透き通るような花弁がはらりと彼らの手のひらに散っているようだった。

ホシくんとはまた色の違った振付だね、とあとで友人と話した。ダンスの経験がある彼女曰く、ジョンハンやスングァンにはこういう振付が似合う気がする、という。私にはそれを判断できる目はなかったけれど、13人いればスタイルはきっと少しずつ違うのだろう。それをいつもまとめあげるホシくんも凄いけれど、もしかしたらディノちゃんは13人のカラーとはまた違う、この6人だけの魅力を最大限引き出せるような振付を考えたのかもしれない。最近どんどんかっこよくなっていく末っ子が一層頼もしく思える曲だった。

 

지금 널 찾아가고 있어

正直、コンサートでこれを聴けるとは思っていなかった。リパッケージアルバムDIRECTOR'S CUTのティーザーが公表された時から一目惚れならぬ一耳惚れ(?)をしていたこの曲は、私の出勤前の定番曲だった。思うように仕事ができなくて、自分の不甲斐なさを思い知るのが辛くて、会社に行くのが嫌で仕方がなかった時期、最寄り駅からオフィスまでの7分間、ずっとこれを聴いて背中を押してもらっていたのだ。底抜けに明るい曲調だけれど、私にとってはこれが、彼らが私のそばにいると思わせてくれる曲でもあったのだ。彼らを好きになってからの1年半、何度も、何度も彼らに救われてきた。セブチがいてくれて良かった、そう思ったらどうしようもなくて、ひとりで泣きながらペンライトを振った。

もとから極端にパートが少ないジュンだけど、この曲も例にもれない。それなのに振り付けもない演出で、正直ちょっとどうするのかな、と思った。でも私は歌わないジュンの姿を見て、彼のことがまた一段と好きになってしまった。スタンドマイクを握りしめ、ギターの音に合わせて腕を振り下ろして、自分が歌っているわけでもないのにロックスターになりきるみたいな彼が愛おしくて仕方がなかった。こんな風にマイクを握るのか。こんな風に音に乗るのか。私の知らないジュンがそこにはいて、涙が止まってからはただその姿を穴が空くほど見つめていた。

 

바람개비

ピアノの旋律がゆったりと流れるこの曲が好きだ。柔らかな風が首元をふわりとくすぐっていくのを感じるような気がする。つい呼吸を忘れてしまいがちなコンサートの中で、ようやく少し息を取り戻すことができる曲。

いろいろな解釈のできる曲というのが好きなのだけど、この曲もそういうもののひとつだと思う。恋愛の歌だという人もいるけれど、私にとってこの歌は、過去と現在の自分の歌だ。

 이런저런 일들 숨가쁘게 바쁜 이 뭐 같은 세상 땜에
 너와 내가 멀어진 거라 둘다면
 괜히 나는 잘못 없는 것처럼 꾸며내는 것만 같아
 그러지 못했고 바람만 맞으며 서있어

 あれこれ息が詰まるほど忙しない なんでもない世界のせいで
 僕と君が離れてしまったんだといったら
 当然僕は悪くなかったことにしてしまうようで
 そんなことはできなくて ただ風に吹かれて立っている

ふだん、時の流れに怯えて生きている。今を取り戻せなくなることが怖い。試験の日程だとか仕事の納期だとか、そういうものばかり容赦なく迫り来て、その場しのぎでそれらをやっつけているうちに一日、また一日と終わっていく。20代も半ば、まだ若いとはいえ色んなところで自分の体が10代の頃と同じようにはいかなくなってきていることにも薄々気付いている。自分が何者なのかもわからないまま、何かを成し遂げた実感もないまま、時間ばかり過ぎていく。未来を描く勇気も持てずに、もう触れることのできない過去ばかり恋しがっている。時間の流れが怖い。世界においていかれそうで、生きていくのが怖い。過去の自分に顔向けできない、といつも思っている。

でもこの曲を聴いていると、時間の流れを少し肯定できる気がする。また一歩先に踏み出せば、違う景色がそこに待ち受けているかもしれない。不思議とそんな気持ちになる。だけど、別に立ち止まったままだっていいのだ。かつて思い描いていた自分とはかけ離れた大人になってしまったことを悲しまなくたっていい。若くて希望に満ちていた自分を思い出せなくなってしまったっていい。

ウジくんは泣かないでと歌う。全部受け止めてくれそうな優しい声で、君は君だ、という。泣かないなんて無理だ。でも、それは悲しい涙じゃなくて、私の体を覆った塵を洗い流していく雨みたいなものだ。この歌を聴いたあとの空気は、雨上がりみたいの夕方みたいにきらきらとしている。

曲の終わり、会場を満たした静かな拍手にイヤモニを外し、目を閉じて聞き入るジョンハンの姿が目に焼き付いている。

 

言行一致

昨年夏のさいたまスーパーアリーナでこの曲を観て以来、どうしてもまたコンサートで聴きたいと願い続けてきたのが叶った。高くなったステージから射抜くようなバーノンの鋭いラップが響く。その下、ダンサーとともに長テーブルにつく三人は、間違いなくレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を意識した演出だろう。その長テーブルの上を、食器を蹴散らして闊歩するスンチョルに痺れた。ああ、伝えきるだけの語彙をもたない自分が悔しい。

 

Swimming Fool

水の中に沈んだようなエフェクトがかかったイントロにうきうきした。セブチの曲の中で、一番振り付けが好きなのはこの曲だ。軽快なステップに蹴散らされた水飛沫が光を受けてきらきらさんざめくみたいな、そんな踊り。ディノちゃんが波と追いかけっこをしているような振付にHealingのMVを重ねて見て、懐かしいような甘酸っぱい気持ちにもなったりもする。明るい水色がぱっと目の前に広がって、問答無用で気分が上向くようなこの曲が大好きだ。

 

そろそろ楽しくなってきて、これ以降はほとんど記憶がない。たぶん、それでいい。言葉を尽くすことだけが愛じゃない。

ずっと、彼らの創り上げるステージを、そこで輝く彼らを視界に収めることに必死になっていた。それが彼らに対して真摯であるということなんだと、勝手に思い込んでいた。でも、彼らの望みは、もっとシンプルだ。

おーイェイ、楽しく遊ぼう。アンコールVCRのスンチョルの言葉だ。一緒に飛び跳ねること。日常のストレスを振り払うみたいに、全力ではしゃぐこと。Healingも、아주NICEも、これでもかってくらいぴょんぴょん飛び跳ねた。こんなふうにはしゃぐなんて、もう随分していなかったなと気が付いたら幸せで胸がいっぱいになってしまって、べしゃべしゃに泣きながらそれでも跳ねた。きっと、彼らが私達にくれようとしたものはこれなんだろうな、と思いながら。

 

아주NICE

こんなに底抜けに楽しい曲を最後に持ってこられたら、楽しい思い出にならないわけがない。終わりと見せかけてから曲が再開する演出が大好きだ。オーラスだった9月9日は結局何回やったのかも覚えていない。何度目かをやって、いよいよ終わりかという空気の中流れる日本デビュー曲を、扉の向こうに消えた彼らに届けと願ってただひたすらに歌った。戻ってきた彼らは、いたずらっ子のように笑っていた。ちゃんと戻ってきてくれるんだ、って思ってすごく嬉しかった。

ああ、なんだか書き始めたときは寂しくてたまらなかったのに、アンコールのことを思い出したら楽しくなってきちゃったな。

ホシくんが、今死んでもいいと言っていた。ジュンもそれがわかる、と。ただのキザな台詞にも聞こえるけれど、あの瞬間悔いがないと思っていなければ出てこない発言だったと思う。それってすごいことじゃないか。あそこで死んでもいいと思えるくらいに、彼らは全部を出し切ってぶつけてくれたんだ。

最終日、コンサートが始まる前から、終演後死んでしまいたいと思っていた。だって、コンサートが終わったら待っているのはただの日常で、そんなのは嫌だったから。何を楽しみに生きていけば良いのか、わからないから。だけど、それはホシくんのいう「死んでもいい」とは全然違う。

ジュンがVCRで、またセブンティーンのコンサートに来たいと思ってくれたら、それが一番いいですね、と笑っていた。でも、次の約束はなかった。今度いつ彼らに会えるのかわからない。それなのに、あんまり怖くない。大丈夫だ。彼らは戻ってきてくれるから。だからその時まで、やっぱり生きてみようと思う。

待つしかないから、待つよ。だって、セブンティーンが一番かっこいいもんね。