180921

今月は、なんかすごく長い。もうとっくに月末の気分なのに、まだあと1週間あるのだという。それなのに、9月もあと1週間と聞くと、嘘みたいに早くも感じる。時間の感覚というのは変なものだ。今日は金曜日で、来週の月曜日は祝日だ。入社して、研修が終わってからずっと携わってきたプロジェクトもあと4日で終わる。10月からはまた心機一転、新しいプロジェクトだ。同じ社内とはいえ、仕事の内容も、同僚も上司も、働く場所も全部変わる。変化を恐れる方ではないけれど、いってみれば転職するようなものだから、一年前と似たような心細さを感じている。

1年。会社員になって1年が経つ。物覚えの速さには自信があったし、実際上司や先輩も、そういうところを評価してくれているのだろうと思う。でもそれは、私のポテンシャルに期待しているだけであって、じゃあおまえは何かを成し遂げられるようになったのかと問われたら言葉に詰まってしまう。私は、何かできるようになったのだろうか。この規模の企業にしてはそこそこ自由な社風だと思うけれど、仕事のできない人間のお守りをしてくれるような優しい会社ではない。可能性を評価してもらえる期間は、もうそんなに残っていない。働くのは嫌いだ。だけど、のらりくらりと生きているだけで降ってくるお金を手放しに喜べるほど楽観的な人間でもない。けっして少なくない額の給料を貰うからには、それなりに会社の中での自分の立ち位置を確保しなければならないと思うのに、今の私は全然それができていない。

この1年をどう過ごせていたら、正解だったんだろう。ただいろんなものが手からすり抜けていった感覚だけがある。感覚が鈍化して、心が少しずつ削れて、そうやって社会で生きていくために自分を飼いならしている。もうこの話、何度目?壊れたテープみたいに、もうとっくに反芻しきった思考ばかり転がして、自分を持て余している。思考回路は錆びついて、思い通りに働かない。

日記を書こう、と思った。今のところ、この生活はもう暫く続きそうだ。それはつまり、私はこの、脳が溶けていくような恐怖とこれからも戦い続けなくちゃいけないということだ。抗っていかなくちゃいけないのだ。だから書く。言葉にする。失われていく感覚を引き止めておくため、アウトプットの練習、生きることの積み重ね。

本当は10月からキリよくスタートしようと思っていたのだけど、なんとなくそこまでこだわらなくていっか、と書き始めてしまった。たぶん、今書きたいから書こうと思ったのだろうし、10月が始まるまでのあと1週間で、その気持ちがいなくなってしまったらもったいないから。昔だったら、こういう良い意味での適当さみたいなものは持てなかったから、そのあたりは柔らかくなったのだろうな。

他人には説明できない自分ルールを自らに課す癖は未だにかなりあるのだけど、それでもルールの数はかなり減った。というか、およそ自分が規律を守れやしない人間であることを理解できるようになったのだと思う。ありのままの自分を受け入れられるようになったといえば聞こえはいいが、つまりは諦念である。私は自分に未来も希望も見出さない。こういう生き方自体、成長とか向上とか希望とか夢とか未来をさも素晴らしいことのように扱う世界に対する小さな反抗だったりする。生きづらそうだねと評されたことなんていくらでもあるけれど、あいにく迎合できるくらいならここまで天の邪鬼をやっていない。別に楽になりたいと思って生きていないし、生きるために楽になりたいとも思わないし、耐えられないほどに辛くなったら死んじゃえばいいだけの話だ。

日記を書くと決めたときに、ふたつだけ守りたいと考えたことがある。ひとつは、嘘をつかないことだ。もともと嘘も隠し事も得意ではないけれど、自分をよく見せるために偽るような言葉を紡がないこと。もうひとつは、自分のためだけに書くこと。読まれることを想定した言葉を使わないこと。これはめちゃくちゃ難しくて、小説を書くときにも、ツイッターで呟く時にもいつもすごく悩むことだ。なおさら日記なんて個人的なものを綴るのに、あえてブログなんて他者の目に触れることを前提にした場を選ぶのは、それ自体が矛盾だ。だから、自分に対する挑戦でもある。自分が選ぶ言葉が商業的であってほしくない。他者の存在に干渉されたくない。自分のためじゃなくて誰かのために書いたらそれはもう私の言葉でも、私の物語でもなくなってしまうから。いつまで続くかわからないけれど、まあ続かなくてもいい。