傍観(4月28日、ソウルにて)

安宿の、けっして快適とはいえない寝心地のベッドで目が覚めたのは11時になる頃だった。そこからまたしばらく微睡んで、正午をまわってどうにか宿を出た。睡眠をきちんととると、こんなにも体は軽いのか、と驚く。予定は何も決めていなかったので、宿から大通りに出て、なんとなくで左に進むことを決めた。はじめてひとりで旅行をしたのは2年前の夏に香港に行った時だが、そのとき以来、すっかりひとりで動き回る楽しさに魅せられてしまった。友人と行く旅行もそれはそれで楽しいけれど、やはりひとりに勝るものはないと思うのは、こういうときだ。何も決めず、感覚だけで、その瞬間に右か左かを決めてそちらに歩き出せる時。

大きめの交差点までたどり着いて、さて次はどちらに進もうかときょろきょろしていたら、ビルの向こうにゴシック様式の高い尖塔がそびえているのが目に入った。明洞大聖堂だ。大型連休中の明洞なんていつもにまして日本人が多そうで避けようと思っていたのだが、ふっと心を惹かれてそちらに行くことにした。明洞の中心部からすこし離れたところにあることもあるし、なにより、今日は礼拝堂の中に入ってみたくなったのだ。昼は過ぎていたからてっきり礼拝は終わっているのかと思ったのだが、中に入ってみると、ちょうどミサの最中だった。日曜は、朝から昼にかけて幾度かに分けて礼拝をやっているとあとで知った。

私自身は信仰を持たないけれど、中学から大学までの10年間をキリスト教校で過ごしたせいか、教会という場所は好きだ。カトリックの荘厳な空間であれ、プロテスタントの素朴な空間であれ、祈るための場所は、時間の流れが穏やかで、外の世界とは確実に異なる、静謐で重たい空気が満ちている。日常の喧騒が遠のいて、慌ただしさでささくれていた心がふっと凪ぐような空間。

礼拝に参加するのは、学生時代ぶりのことだった。席は後ろまで埋まっていて、遅れて参加したひとたちが溢れて後ろの方に立っていた。私もそのなかにまぎれて、ところどころ聞き取れる神父の言葉を理解しようと努めながら、信仰の溶けた空気を取り込もうと何度か深呼吸をしてみた。祈りの場の空気というのは不思議とどこもひんやりとしているような気がするが、比較的温かい日だったからか、ここはなんだか柔らかいような気がした。迷い込んだ観光客として、この美しい空気を乱したくはなかったから、周りにならって祈りを捧げてみた。信仰を持たないと自覚しながら、宗教的な儀式を模倣するのは、果たして礼を失していることになるのだろうかという迷いはあったけれど、すくなくとも、あの場で同じように振る舞うことが、彼らに対する敬意だと思ったのだ。礼拝が終わっても、自分が何を祈りたいのかはわからないままだったけれど。

祈るひとが私はとても好きだ。ひとが祈りを捧げる姿は美しいと思うし、信じるものがあるひとはしなやかだ。彼らの視線や言葉の向かう先に在るものを、私は知らない。触れることもできない。神よ、そこにいるのですかと胸の内で呼びかけてみても、こたえはない。羨ましい、と思う。信仰とはなんだろうか。信じるものを持った先に見えるのは、いったいどんな世界なのだろう。この美しいひとびとの目を通して解釈する世界を、私は見てみたい。その場にあって、明らかに異端である自分に所在なさを覚えながら、そんなことを考えていた。

礼拝がおわって、外に出たとき、ずいぶんと自分の心が落ち着いていることに気がついた。私がコンサートを口実にあちこち飛び回るのは、気が急いてばかりの日常から逃れて呼吸を取り戻したいからだけど、まちがいなくその目的を果たすことのできたひとときだった。ほんとうは日本にいるときも行きたいとずっと思ってはいるのだけど、朝が弱いという致命的な弱点のために、今のところ実行できていない。

礼拝が終わったのは13時で、コンサートの開演時間までは4時間近くあった。はてどうしようか、とぼんやり大通りを歩いているうちに、美術館に行ってみたいと思ったことを思い出した。ソウル市内の美術館を検索していくつか出てきたもののうち、韓国の伝統美術から近代美術までを網羅した展示があるという紹介文に目が留まった。お、面白そうじゃんと調べてみたら、なんとコンサート会場と同じ最寄駅だという。私はここに行くべきだったのだと直感して、迷わず電車に乗った。神は信じていないけど、こういう運命みたいなものはけっこう真剣に信じている。

漢江鎮駅から徒歩5分、坂道をすこしのぼったところにある三星美術館リウムは、館名そのままサムスングループが運営しているとかで、洒落た風貌の立派な建築だった。サムスンが漢字表記で三星であることを初めて知った。私は昔から歴史がからきしなのだが、異国ともなればなおさらで、知識皆無の状態で臨んだ伝統美術の展示はおもしろかった。とくに磁器の展示は、個人的にもともと好きなこともあって楽しかった。青磁器や白磁器の美しさには心を奪われた。唐草紋、雷紋、雲紋といった模様の名称や、陰刻、陽刻、象嵌といった装飾の手法の名前まで、知らないことがたくさんあってにやにやした。それからすごかったのは、音声ガイドだ。作品に近づくと、自動的にその作品の解説が流れ出すのには驚いた。しかも1000ウォンで借りることができる。日本だったら500円とかするのに。韓国はたしか特定の日にミュージカルや映画のチケットが安くなるみたいな制度もあるときいたことがある。芸術にお金を惜しむようなことはしたくないけれど、ハードルが低いのはすごく羨ましい。

伝統芸術館を4階から1階まで見てまわって、それだけでも1時間半はゆうに過ぎていた。空腹に耐えかねて館内のカフェで軽食をとり、それから現代美術の展示館もまわった。おもに印象派の絵画が好きな身としては、いまひとつとらえどころのない現代美術には苦手意識があったけど、こちらも面白かった。食わず嫌いだったのかもしれない。最初は音声ガイドをつけずにぐるりとまわって、そのあと気になった作品に戻って解説をきく、というやり方をしてみたら、これがもう超楽しい。静かな館内でなんどへえとつぶやいたかわからない。結局ひとつひとつ解説を聴きたくなってしまったものの、時間切れで飛ばし飛ばしにしてしまったのがとても心残りなので、また時間があるときに行きたい。あらためて、この国のことをなんにも知らないのだなと思う。アイドル以外のこの国について知る、というのは私がひそかに今年の目標に据えていることでもあったので、そのとっかかりをつかめた気がして嬉しい。

そんなこんなでコンサート会場に駆け戻った。ちょっぴり考え込んでしまうところもある公演だったけれど、彼らが楽しそうでそれがすごくよかった。そのあと会いたかった人にも会えたし、美味しいものを食べながらゆっくり話せたし、きちんと呼吸を整えることができた日だった。何度も訪れるうちにわかるようになったことはたくさんあるし、たまには他の場所にも足を伸ばしたいなと思いつつも結局また来たくなってしまうのは、やっぱりこの土地が好きだからなんだろう。はじめのころよりずっと好きになっている。毎回新しい表情を魅せてくれるこの街が好きだ。次はいつだろう。