液晶、生活の交点

生きるって、なんだったか。こんな生き方をしたかったわけではない、とその感覚ばかりを毎日やり過ごしているけれど、どんなに風に生きたかったのかはもう忘れた。

25歳。結婚とか、出産とか、はたまた社長になっていたりとか。とっくに言葉をかわさなくなった(そしてきっと、この先も交わさないであろう)かつての同級生たちが、ライフステージを着々と進めていく。私は画面をスクロールして、それらの概要だけを把握する。中身に興味はない。かかわりのなくなった誰かが、おなじくかかわりのない誰かと生きていくことにしようが、私にはかかわりのないことである。時間というのは面白くて残酷だ。あれだけ近くに感じていた彼らが、もし今なにかで死んでしまったとて、今の私が悲しみに暮れることもないだろう。薄情な人間になったものだ。

それなのに、私にとって取るに足らない存在であるはずのひとびとに、こんなに焦燥感を掻き立てられている。理不尽も甚だしい。

結婚にも出産にも興味がない(というより積極的に避けたい)し、それらを幸福と定義する世界を憎んでいる。私を幸せにできるのは私だけだ。だけど、社会の中ですこしずつ役割を変えながら上手に生きていくひとたちのことは羨ましい。彼らが夫とか妻とか父親とか母親とか上司とかになっていくのに、私はずっと同じところにいる。それがもどかしい。

違うね。誰にも必要とされない自分のことを肯定できないだけだ。結婚だとか家族だなんて社会制度は心底ばかばかしいと思うけれど、このひとと生きていたいと思えるひとに出会えたひとたちのこと、その相手とこの先も一緒にいるという選択をできるひとたちのことが妬ましくてたまらない。流れてゆく画面をいちど叩いて、息の詰まるような幸せに満ちた文章と写真をほんの刹那注視するとき、自分がそちら側にいくことをゆるされていない諦念が腹の底をじわりと重くする。誰かの幸せなんか祝ってやりたいと思わない。私が幸せじゃないので。