2月18日(木)呪い

日付が変わる前には布団に入ろう、と思っていたはずなのに、なんとなく胸の奥がじりじりして書き始めてしまった。

昨日も早く寝ようと思っていたのに、けっきょく夜中までまほやくクラシックの話をするのに夢中になってしまって、やっぱり今朝も起きられなかった。午前中はほとんど布団に入ったまま会議を聞いていた。

午後には会議がなくて、なんだってできたのに、16時くらいまではブラームス交響曲全集を流しながらツイッターをぼんやりと眺めているだけで終わった。第1番から第4番まで、3時間弱。一度に通して聴いたのは初めてだったけれど、やはりテンポが一定以上の速さがある方が好きなんだなというのがわかった。たぶん、曲に動きがないと集中して聴いていられないから。ゆっくりした曲調でもじっくり聴けるだけの体力がほしいな。

薬がなくなってから二週間が経つ。調子は悪くはないけどよくもなくて、風呂に入れるかどうかはけっこう日によってまちまち。食事はけっこうひどい。今朝起きて、流しにカップ麺とレトルト食品の残骸が数日分置きっぱなしになっているのを見て、何も頑張らないわけにはいかないんだなあと思った。頑張るな、って言われるけれど、惰性にまかせていてもいいことはない。文章を書けるくらいには体力があるから、悲観的にならなくてもいいのかもしれないけれど。

そう、だから、やっぱり休むを頑張らないといけないみたいだ。ツイッターを眺めて3時間を過ごすことを休んでいるとはいわないだろう。ちゃんと休まなきゃ、と思う。仕事には復帰したい。取り返しがつかないことになる前に。こんな状態の自分をいつまでもゆるしてはいられないし。でもじゃあ休むって何?と思う。何をしたら休んだことになるのだろう。好きなことをやるのだって、消耗することにはかわりない。生活もまわしていかなくちゃならない。ゆっくり休んで、なんて言われたってどうすればいいかわからない。


まほやくのアカウントで、好きな文章を書く人を見つけた。考え方、感じ方、言葉の使い方。私は自分の文章が好きだけど、時々敵わないと思わされる人がいる。勝負ごととして考えているわけじゃないのに、立っているステージが違うなと思わされてしまうような人。私にはこの人の見ている世界を知ることは一生ないのだろうと知る時の、打ちのめされるような敗北感。個人的な勝敗というよりも、図書館や書店で、一生かけてもそこにあるすべての本を読むことはできないのだと思う時におぼえる、自分という存在の小ささを実感する感覚というか。その人はそういう文章を書く人で、そして、なんとなく1年ほど前にインターネットで知り合った彼女を彷彿とさせるのだ。もしかしたらこの画面の向こうにいるのは彼女じゃないか、と思うことがこの数日何度かあった。画面に敷き詰められた密度の濃い言葉の並びにときめきをおぼえながら、同時に痛くてたまらない。これはやっぱり呪いだ。彼女の面影をいろんなところに見る。彼女を傷つけたのは私だ。悪いのは私で、彼女は何も悪くない。その呪いの解き方を私は知らないし、解くべきじゃないとも思う。一生その罪を背負え、とは彼女に面と向かって言われた言葉で、私はそれをずっと考えている。彼女のためにではなくても、どうやったら償えるかを毎日考えている。それだけのことをした自覚はあるから、それでいいと思っているけれど、でも終わりが見えなくて苦しいなと思うときがある。罪を背負え、という重たい言葉を突きつけられて、傷つく資格があるかどうかでいったらそれはないのだけど、でも、自分もそれで傷ついたことくらいは受け止めてもいいんじゃないだろうか、と思うことが増えた。でもそれは、償いを捨てることにならないだろうか。開き直ることにはならないだろうか。

友人から宝塚の布教セットが送られてきた。DVDが6枚ほど。レターパックの封を切ったら、他人の家の匂いがふっと漂ってちょっと楽しくなった。