7月25日(日)不完全な外側

四連休が終わりゆく。木曜と昨日遊びたおした帳尻を合わせるかのように、金曜と今日はじっとしていた。じっとしているうちに時間がすぎていって、居心地の悪い焦燥感がある。たまにインターネットで「暇だから質問こたえます」という不思議ないとなみをやっている人を見かけることがあって、そのたびにその人らのいう暇という感覚の意味がよくわからなかったのだが、今はすこしわかる。読みたい本も、観たいアニメも、書きたい物語もある。したかったはずのことはたくさん思いつくのに、今したいことがわからないのだ。だからといって、私には見知らぬ人間からの質問にこたえるような甲斐性などないのだけれど。たぶん、双方向のコミュニケーションは面倒だけど、他者とはかかわっていたいという独善的な欲を満たす手軽な手段として、ああいうのに需要があるということなのだろう。ついでに自己顕示欲も満たせて一石二鳥。

むりにでも文章を書こうと木曜の日記を書いてみたものの、いまひとつ納得いくものはできあがらず、自分を持て余して谷川俊太郎の詩集を開いて眺めたりしていた。しかし詩集というのは、小説や学術書と違って、文字をなぞれば意味を理解できるようなものではないから、思考に余裕のない状態で向き合うものではない。紙面に綴られた言葉の描き出す情景をつかまえられずに、目線が文字のうえを滑っていってしまう。何度読み返してもだめだったので、けっきょく一度電源を落とすためにシャワーを浴びることにした。

シャワーを浴びながら考えていて、やっぱり書くことが足りていないんだな、という、もう何千回も何万回もたどりついたところにまた戻ってきた。文章を書けなくなっているのも、詩集を読めないのも、思考の深度が落ちているから。思考の深度が落ちているのは、自分の気持ちをおろそかにすることに慣れてしまったから。仕事でも、それ以外でも、起きている時間のほとんどを、コンピュータのスクリーンを見て過ごしている。私の世界は、15×30cm程度の電子画面の中で完結している。だから、その外側で起きていることを取りこぼさないように、事実の列挙に躍起になっている。おおげさでなく、そんなことをしていないと生きているかどうかわからなくなってしまうから。でも、そこでとまっているうちは、まだ死んでいるのとかわらない。何があった、何をした、そういう事実をうまく、それっぽく書き残すことはまだできている。それでも自分の書くものがいっそう薄く浅くつまらないものに思えてくるのは、自分の気持ちのうごきをとらえる訓練をもう長いことしていないからだ。嬉しかった。悲しかった。悔しかった。そういう結果としての感情だけ記録して満足している。そんなものはただの事実にすぎない。クソつまんねえよ。元恋人とのあいだにあるものを言語化できない、などと言っているのも、しょせん怠惰にすぎないのかもしれない、と思いはじめた。私の外側にあるものを綴って満足したくない。私は私が生み出す言葉を愛していたいし、そのためには外側だけを残しておくのでは不完全なのだ。