陽ざしの中へ(今年のふりかえりと新年に向けて)

年の瀬の空気が濃い。ふといい年だったなあ、と思ったので、年の瀬らしく今年をふりかえってみる。記事の題は、今年もっとも聴いたアルバムのひとつである、ミュージカル『ノートルダムの鐘』のいちばん好きな曲から。閉ざされた塔から明るい陽ざしの中へ、ようやく一歩踏み出せた、そういう年だったと思う。良い年たらしめたあれこれについて。

なによりもまず、ずるずると続けていた不健康でトキシックな恋愛を断ち切ることができたこと。今年の年明けの日記でも、もう終わりにした、だとか言っていたくせに、夏頃にうっかり再燃させてしまったのがいけなかった。足掛け2年ほどそんな調子でやってきたから、ことの顛末を知っている友人たちにはいまだに狼少年あつかいされているけれど、今度こそ、ほんとうに終わりだ。もうだいじょうぶ。終わらせたい、じゃなくて、終わった、と思っているから。年末に会った人皆に元気そうだと言われたけれど、事実、ここ数年でももっとも調子が良い日々が続いている。そしてこの安寧は、自分の精神と尊厳を、みずからの手元に取り戻すことができたことによってもたらされたものだと思う。もう自分を傷つけて惨めにさせる恋には戻らない。

もうひとつ、凪いだままでいられるようになったわけには、年明けに体調を崩してから仕事のやり方を見直したことがある。計画をきちんと立てないまま、焦りだけが先んじて考えなしに手を動かして破綻する、という悪循環にはまりがちだったのだが、自分に合ったタスク管理の方法を見つけることができた。まだ計画を組むことも、それをそのとおりに実行することも苦手なままだし、試行錯誤は続くだろうけれど、すくなくとも手を動かす前に立ち止まって段取りを考える、考えようとする習慣がついたのは大きな変化だと感じている。勤めはじめて以降、冬場は毎年のように希死念慮に苛まれるのが通例だったのだけど、この冬は忙殺されていたわりにはぴんぴんしている。大学時代からかれこれ七、八年、暗いところと明るいところを行ったり来たりを繰り返してきたけれど、もう前ほど闇に足を取られることはないんじゃないかな、という気がしている。もっとも、それを書くことの原動力としていた部分も大きいので、今となってはすこしそれが惜しい気もするけれど。

斉藤壮馬さんを好きになったこと。好きなひとはあいかわらずたくさんいるけれど、このところの生活に大きな影響を与えているのは、間違いなくこのひと。好きになるべくしてなった、としか言いようのないひと。どうしてもっと早く好きになっていなかったのだろう、と思うひと。このひとを好きでいることが楽しすぎて、会う友人に片っ端から彼の話をしてしまう始末だ。生まれてはじめてラジオにおたよりを送ったこと、そのおたよりが採用されて読まれたこと、朗読会に行ったこと。三十路、なんてすこしネガティブな印象をともなってもちいられる言葉だけれど、この年齢になっても、否、この年齢だからこそ、新たに経験することはたくさんあるし、それが楽しくてたまらない。そう思わせてくれているのがこのひとだ。これまで見てこようとしなかった世界との接点となってくれている。とりわけ、本を読む楽しさを思い出させてくれたことがいちばん嬉しい。だって彼、本のことを話すときほんとうに楽しそうなのだ。「読書家声優」というブランディングとして意図的にやっているところはもちろんある(本人もしばしばそう口にしているし)のだろうけれど、それを抜きにしても、本について語るときの彼の口ぶりには、聴く者に「自分も読みたい」と思わせるだけの魅力がある。

本をたくさん読めたこと。今年読んだ本は40冊強。そしてそのうちの半分以上は斉藤壮馬さんを好きになった10月以降の3ヶ月で読んでいるものだ。読書量としてはたいした数ではないし、もちろん数が多ければいいというものではないけれど、とくに高校に上がって以降ほとんど読書をしてこなかった私にとっては、その期間に読めなかったぶんまで取り返したい、という焦りもある。斉藤壮馬さんの影響ももちろんあるけれど、自分の成熟と老化をすこしずつ意識するようになってきたのも大きいかもしれない。28歳。あと半世紀は生きると仮定しても、数千冊を読むのが関の山だ。この世界のすべてを読み尽くすなんて誰にもできないとわかっているけれど、それにしたって、おもしろい物語を知らないまま、労働だけに身をやつして死んでいくのはごめんだ。読んでこなかった10年をいまさら悔いてもどうしようもないから、今読むしかない。くわえて、もとより婚姻も出産も望まない私にとって、この先、社会における自分の立ち位置の大きな変化は望めない(仕事での役職は上がっていくのだろうけど、そんなものは私の人格から離れたところで起こる現象に過ぎない)。取り残される焦りはなくとも、変化できないこと、停滞することへの焦りはある。そういうなかにあって、未知から既知を手にするいとなみは有効だ、と思う。こう言ってしまうと打算的、というか教養主義的な感じがして嫌だけど、でも、自分で自分を楽しませるのってそういうことじゃないか。いつかのラジオで、斉藤壮馬さんがぽつりと「知らないことを知るのが快感なんですよね」と言っていたことがあったけれど、そういうこと。飢えを満たしているのに近いかもしれない。自分が空腹だったことを、ずっと忘れていたような気がする。あるいは、諦めていた、気づかないふりをしていた、とも言える。好きなだけ食べることをゆるされているのだ、食べていいのだ、そう教えてもらって、がつがつかきこんでいる、それが今。私は何も知らない。世界のことも、世界が生んだおもしろい物語のことも、自分自身のことも。私は愛するものの多い生活を送ってきて、それはとても幸福なことなのだけれど、それだけではけっきょく愛だけがふくらんで、私の存在の濃度は薄まってしまうような気がする。自分をわかる、というのは、自分の存在をたしかなものとして感じることで、すなわち自分の輪郭、自分の存在の範囲を理解することだ。ジャンルは小説と随筆に偏ってはいるものの、なるべく脈絡なく読みあさろうと意識しているのは、自分が何を好きで、何を好きでないのかをきちんと見極めたい、という思いに基づく。この乾きが満たされることはきっとないのだろうけれど、読み続けていれば、何を食べてもおいしいというところをいずれ脱して、すこしずつ好きな味、嫌いな味がわかるようにはなるだろう。本、読むのすっごく楽しいよ。壮馬さん、ありがとう。もちろんこれは読書にかぎった話でもなく、漫画も読んだし、アニメもよく見たと思う。これからも好きと嫌いに出会っていくぞ。

会いたい人にたくさん会ったこと。ひさしぶりの人たちに会えたこと。死ぬ準備のために、人とのつながりをなかば意図的に絶ってきた数年だった。忘れられたかった。死ぬのをやめてからも、一度切れてしまったつながりを修復するところまではできなかった。そんな資格は自分にはないと思っていたこともあるし、かつて友人だったひとびとの関係が、自分不在のまま継続していることを目の当たりにするのも怖かった。それでも、失ってしまった人間関係を惜しく思う気持ちは風化するどころか募るいっぽうで、そんな折の感染症の流行は、だから私にとっては好都合だった。誰もがひとしく他者と容易に会えない期間は、積極的に会いたい人と、惰性で会っていた人の線引きを明確にしたという部分では残酷だったいっぽう、遠くなってしまった人と近くにいた人の境界線を曖昧にしてくれたのだ。高校や大学の友人に数年ぶりに再会して楽しい時間を過ごせたことが、すごく嬉しかった。人間関係は、どちらかが持続させる意思をなくした時点でついえるけれど、大事にしたいと思っているかぎり、大事にすることだってできるのだ。それがわかったことが嬉しかった。それに、数年来の付き合いであるインターネットの友人たちともよく遊べて、すごく幸せな一年だった。友人にたいして重すぎる愛をもってしまうのも、かえって自分を他者から遠ざけてしまいがちな一因だったのだけど、私の愛する友人たちはちゃんと受け止めてくれてうれしかった。海に行きましょう、という約束を今でもたからものみたいに胸のおくであたためている。来年も、ちゃんと会いたい人には会いたいって言おう。

引っ越したこと。2021年最高のできごとだった。契約更新ぎりぎりというけっこう無茶なタイミングで、ろくに考えずにいきおいだけで引っ越しを決めて、荷造りの最中はいったいどうしてこんなめんどうな決断をしてしまったんだとひとしきり後悔したのだけど、その甲斐はじゅうぶんすぎるほどにあった。死ぬまでここに住んだっていいくらいだ。ここでこれから生活を重ねてゆくのが楽しみ。

自炊するようになったこと。引っ越して台所が広くなったことと、食事と労働の空間が分離されたことで、よくつくるようになった。とくに食事をとる時間だけでなく、その前後もふくめて、労働の荷ををいっときでもおろして置いておけるというのはすごく大きなことで、日々が豊かになった実感がある。といっても、12月は忙しさにかまけて幾度か食事を書斎に持ち込んでしまったので、来年はさらに両者の分離を徹底したい。

沈み調子ではじまった一年だったけれど、後半で巻きかえして、総じてすごくいい年だったと思う。でも、今年できなかったことも、もっとやりたいこともまだまだある。

住んでいる街には小さな劇場があって、演劇の公演がよく開催されているらしい。せっかく近いのだから、足を運んでみたいな、というのがひとつ。声優の朗読会に行ってからというもの、このところ疎遠だったストレートプレイに対する興味がまたすこし湧いている。大学時代の演劇仲間と年末に再会したのも理由のひとつかも。

あとは今年はまたクラシックをよく聴くようになって、もっとオーケストラの演奏会にも行きたいなと思うし、ヒプノシスマイクでヒップホップにはじめて触れて、もっと掘り下げてみたいという気持ちもある。斉藤壮馬さんをきっかけに初めて聴いたGRAPEVINEがすごく好きだったこともあって、日本のロックももっと知りたいし、欲は尽きない。音楽は別のことをしながら片手間に聴く、ということが多くて、音楽それ自体にきちんと向き合うということをできていなかったように思うので、ジャンル問わず、歌詞やメロディに傾聴するということを意識的にやりたいなと思っている。聴き慣れたものだけでなく、知らないものを聴くことも。

それに、やっぱり本も漫画もアニメも映画ももっと見たいし読みたいし。月に一度は、家事も食事も、もちろん労働も、生活のいっさいをあとまわしにして本を読むための日をつくるつもりだ。

演劇や舞台でも、音楽でも、映像作品でも、文章や絵画でも、あるいは料理でも、人間がなにかを生み出すには、とてつもない熱量を必要とする。膨大な時間と、膨大な思考を費やされて生まれたものはしかし、享受する側にとっては一瞬の体験にすぎない。でもそのぶん、受けとる瞬間に味わう、凝縮されたきらめきは鮮烈だ。人間の創る物語と物語を創る人間を愛する人間として、もっとそのきらめきを目撃しつづけていたい。そして、それをできるだけとりこぼさずにいたい。そのためにはやっぱり知識と経験が要るのだ。世界に対して貪欲でいたい、それが2022年そして28歳の意気込み。

そういうわけで、ぜんぜん労働なんかしている場合じゃない。私の時間はそんなものに費やすためにない。だから、仕事をうまくサボる、というのも目標のひとつ。漫然とサボってしまうとかえって労働時間はのびるというのは身にしみた一年だったから、来年はできるだけ労働の時間をみじかくする。そのための努力をする。

昨年末に昇格してからというもの、労働の対価として得ているものは、養う相手のない気楽な単身者には身に余る。自分が下駄を履かされて手にした今の立場にとどまり続けることは格差への加担と同義なのではないか、名誉男性的に生きのびている側面がある以上、フェミニストとしてこころざす生き方に矛盾しているのではないか、資本主義社会に深く深く根ざした企業に身を置き続けることそれ自体が欺瞞ではないか、そういうことをずっとずっと考えて、それでも今の立場を手ばなす勇気がない自分に嫌気が差すところまでがルーティーンだ。私の仕事は、大企業に利するものではあっても、生きている個々人に利するものではない。それでもそれを、すくなくとも今はまだ、手ばなせないというのなら、せめてそれ以外のところで、もっと困窮しているひとびとに手を差し伸べることを積極的にやりたいし、やらねばならない。金銭的な支援はもちろんのこと、ボランティアとしてどこかに貢献することはできないだろうか、と考えている。できれば、子どもたちの教育支援ができるようなところだといい。教育にたずさわりたいという思いをいまだに断ち切れないから。

あとは、会いたいひとに会う、つながりを持続させる。会いたいってちゃんと言う。感想や思考を、こまぎれでもいいからなるべく書き残しておく。なにかしら勉強する(とりたい資格があるにはあるのだけれど、かなり難易度が高いので、目標として掲げるのには気が引けてしまう)。など。

ほとんど躁状態ではないか、というくらいの気分で挙げつらねたので、やや盛り込みすぎかもしれない。まただめなときが来たら、ちゃんと休むことも忘れずに。くる年の私が、変わらぬ私のままでありますよう。一年間おつかれさまでした。よく生きたね。