2021/12/20

仕事が嫌いだ。嫌いというよりも、ゆるせないというほうが正確である。自分の倫理にもとるような場所に身を置く自分に我慢ならなくなったときが辞めるときなのだろうと思ってきた。そしてたぶん、それは思っていたよりもそう遠くない未来なのだろう、という確信を日々深めつつある。でも、それよりも、このところ労働していてつらいのは、自分のことを好きでいられない瞬間が多いことかもしれない。怠惰さのように、自分のなかで完結するような嫌悪ではなくて、他者と接するときにいちばん望んでいないふるまいをしてしまう機会が格段に増えている。社会との接点に露出する自分のことを愛せないというのは、考えないようにしているけれどけっこう苦しい。ツイッターやブログのアカウントを脈絡もなく新しくしてみたりしたのも、そういう、自分の望まない自分をすこしでも振り切りたかったのである。

簡単であるとはいえ久しぶりに料理をして、気持ちもすこし満たされて、あとすこしがんばろうと思って書斎に戻ってきたところで、同僚からなかば理不尽な文句をぶつけられた。なかば、というのは、その文句の中身がまるきり誤っているわけではないからだ。言っていることは間違っていない。ただ、私の事情やおかれている立場、これまでのいきさつ、そういうものをいっさい理解しようとする姿勢を見せないで、自分の手持ちの情報だけでのっけから決めつけて、咎めるような言い方をされてしまえば、こちらだって憮然とした気持ちになるというものでしょう。本人も自分で敵をつくる態度だというのがわかっているようだが、それならばなぜ歩み寄ろうとしてくれないのか、と思う。それで思わず、こちらも不機嫌さを隠さず、怒りにまかせた返答をしてしまった。人間関係は鏡だ、というのはありふれた言説だけれど、こちらが傷つくことを意に介さないような言葉を向けてくる相手に、丁寧な言葉を選ぼうと思えるほど秀でた人間ではない。私は私が大事にしたいひとにだけ言葉を尽くすのだ、聖人じゃああるまいし。いっぽうで、人格攻撃をされているわけでもない、ただ配慮に欠けているだけの言葉に、こうも感情を乱される私が未成熟にすぎないのだろう、という後ろめたさもある。もっといつくしんでほしい、と駄々をこねているのと変わらない。何より、自分がそうして他者に怒りをぶつけることのできる人間になってしまったことが悲しい。そういうしたたかさと無神経さを身につけてしまったことが悲しい。怒らないこと、耐えることはかならずしも美徳ではないけれど、それでも、他者に声を荒げてしまうくらいなら、頬のうちがわを噛みながら、黙って泣いていることしかできなかった私のままでありたかった。

呼吸をとり戻そうと壮馬さんの音楽を聴いてみたけれど、大好きな美しい言葉たちがかえって痛かった。自分のみにくさが際立つみたいで。壮馬さんはいつも、自分の音楽のことを誇らしげに、いとおしそうに話す。そういうところを私は敬愛していて、彼がそうであるように、私も自分や自分の生み出すものを愛していられたらいいと思うのに、現実は、口から真っ黒な呪詛がこぼれおちてゆく。こんなふるまいをしたいんじゃない。

同僚が家族の事情で仕事からすこし離れなくてはならなかったぶん、残された彼女と私とで業務をまわすことに精一杯で、妙に団結できたような気がしていた。わりあいうまくいくようになって、胸をなでおろしていたところだったのに。話をきいてもらっていた上司にも、最近はけっこううまくやってますよ、なんて笑って話せていただけに、よけいに落ち込んでしまっている。私がもっとちゃんとしていたらうまくやれたのだろうか。私がこうやって自己嫌悪にさいなまれて、ぐちゃぐちゃと内側に刺さった刃を言葉にかえて体外へ排出しようと躍起になっているあいだに、あちらはいつもどおりにいるのだと思うとやっぱり悔しい。でもこうして苦しんでいられるうちは、まだ自分のことを愛してやってもいいのかもしれない、とも思う。

昨日、何から何まで完璧な日曜日だったはずなのに、ぜんぶ塗りつぶされちゃって悲しい。風化しないうちに残しておかなくては。あと四日、どうにか過ごせば、すこしは休める。