2022/1/31

ぜんぜんだめな一日だった。昨日の夜、がたんと気分の落ち込みが来て、立て直せないまま眠りについたのが午前三時過ぎ。起きられるはずもなく、目を覚ましたのは午前十時半をまわっていた。仕事が立て込んでいないのがかえって悪く、時折飛んでくる連絡を返しながらぼうっとしているうちに時間が過ぎてゆく。陽がかたむいた頃にようやくのろのろと支度をして家を出た。

調子の悪さの原因が生理によるものだとわかったところで、何が解決されるわけでもない。というか、悪さの根源が生理なのではなくて、もともとそこにある靄の種が、体調によって増幅されるだけだ。元気にふるまえているときは、その靄を蹴散らして、なかったことにできていただけ。

昨年末あたりから今月までの自分を振り返ってみると、かなり精力的に動いていたと思う。本も漫画もたくさん読めたし、自炊もちょくちょくしたし、資格の勉強もほとんど毎日欠かさずにやっていたし、日記という形でまとまった文章をコンスタントに書いている。仕事が落ち着いていたからできたことだとはいえ、ここ数年でいちばん自分を追い込めた方だ。自分に課したことも、自分の欲を満たすことも、手を抜かずにやれた。そういうふうに自分で自分を認めてやれるなんて、これまで生きてきたなかでもそう幾度もあったようなものじゃない。だからもっと達成感に満たされることを期待していた。だというのに、どうしてこんなにも気持ちがうつろなんだ。

けっきょく、自分はないものねだりを続けることしか能のない人間なのかもしれない、と思い至って、すこしばかり生きることに嫌気が差している。文章がまったく書けなかった時期は、日記を書けるだけでも嬉しくてたまらなかった。ところがこのひと月書き続けていて、書けることに慣れてしまうと、喜びが薄らいで、今度は自分の文章の粗末さのほうが目につくようになってきた。語彙の乏しさ、思考の浅さ、単調さ、言い回しの退屈さ。この表現、昨日も使ったなあ、なんてことがままある。日記を書くことだけで満足できなくなったというのは、視点を変えればむしろ喜ぶべきことかもしれない。すくなくとも、現実の出来事については、言葉に起こすことが苦にならなくなってきた、ということだから。そんなふうに考えて自分を慰めてみたりもしたけれど、そうなるとむしろ、現実を書き記すことしかできない自分に失望をおぼえずにはいられなくなる。日記を書けば書くほど、日記しか書けないという事実が胸に迫ってくる。苦しいのは、書きたい物語が自分の中に見つからないことだ。私は物語を生みだす側でありたい、書きたいものがある人間でありたいのに。理解していないものは言葉に落とせない。私にとって書くことは世界を理解するためのプロセスで、だから書きたいものがない、というのは、私が世界を理解することを諦めていることを、すなわち世界との接点を失って孤立している状態を意味する。

そう、このところ、自分が他者を拒絶している感覚がずっとあるのだ。他者と理解し合えないことを受け入れることと、他者を理解しようとすることを諦めることは違うはずなのに。親密になりたいと願う人はいるけれど、相手に踏み込んで向き合う覚悟が自分にあるだろうかと考えると、まったく自信が持てない。誠実の介在しない関係に一時的に興じることはこの先もあるだろうけど、誰かを自分の内側に迎え入れるということを、もうできないんじゃないかと思う。そういう自分をまったく想像できない。今までできたことがあったとも思わないけれど。

生活をおろそかにせずに学びと好きなことを両立する、という理想的な状況が思いのほかあっさり手に入ってしまったのも、このむなしさの一端にある。ひとりでいるかぎりでもっとも望ましい環境というのを、私は手にしてしまったのだ。この先死ぬまで、これが頂点なのかもしれない。これ以上はないのかもしれない。そういう恐怖がずっと隣にいる。芥川龍之介の『芋粥』そのものである。人間が結婚したがるのも、子どもを欲しがるのも、今ならわかる。変化が頭打ちになった自分とだけ、この先もずっと付き合っていくのは、かなり退屈でしんどい。まだ二十八なのに、こんな感覚まだ知りたくなかった。

今、自分が社会の構成員である、という感覚がものすごく希薄だ。社会で起きていることがぜんぶ遠く感じられる。政治に、理不尽に、怒りをおぼえなくなってしまったし、より良い社会を望む気持ちも、理想を描く意欲もない。自分がまだフェミニストであるといえるのかすらもわからない。最初からフェミニストじゃなかったのかもしれない。私の信念だと思っていたものは、ほんとうは私のものじゃなかったのかもしれない。足元がぜんぶ崩れ落ちていく。自分がぜんぶ間違っている気がする。

昨日、Stellaの歌詞とキルケゴールを結びつけて考える遊びをしていて、ほかでもない私も絶望の状態にあるんだなあと思った。有限性の絶望、必然性の絶望。自己を止揚する試みをやめた罪人。なるほど死に至る病である。キルケゴールにとっての信仰にあたるものを見つけなくてはならない。それで今日ぼんやりと、やっぱりもう一度大学に行きたいなと考えていた。以前にもそういう夢を持っていたことはあるのだけど、実現できる気がしなくていつしか口にするのをやめていた。学ぶことは絶望を克服する手段をさがすことだから。ちゃんと社会に生まれ直したい。人間を愛したい。