2022/2/5

九時のアラームで目を覚ましたものの、起き上がる気力が足りず、インターネットを眺めたり、スマホゲームをやっていたりするうちに二時間以上が経っていた。おとといの夜からずっと無力感に襲われていて、昨日はひどい有様だったので、今日もこのまま起き上がれなかったらどうしよう、という不安が頭をよぎった。それでもどうにか正午前に布団を抜け出ることができてほっとした。

午前の暗澹とした気持ちはなんだったんだ、というくらい、そのあとはすこぶる調子がよかった。布団を干して、洗濯機をまわし、近所に買い物に出た。近所のパン屋は今日も繁盛していて、二十分ほど列に並んで待った。あたりにただようパンの香りを感じながら待っている時間がけっこう好きだ。ただ、今日は寒かった。陽ざしがあると幾分空気がやわらぐが、待つあいだに本を読んでいたら、次第に指がかじかんでページが繰れなくなるほどだった。帰宅して、コーヒーを淹れて、まだ温かいパンを口にしたら、かなり気持ちが上向いた。昼食のあとは、洗濯物を干して、掃除をして、三時間ほど資格の勉強をした。夜はポトフを作った。ものすごく美味しくできるわけでなくとも、自分で作ったものを食べるとすこし気分がほぐれるような気がする。一時間ほどまた勉強して、日記を書いた。これを書いている今は氷点下まで冷え込んでいるらしい。暖房をつけているが、足元から冷気がはいあがってくる。

生活のあいまに『スキップとローファー』を読んでいた。斉藤壮馬さんがいつかのエッセイで熱っぽく魅力を語っていた作品であり、信頼する人が大事にしている作品でもあるから、読むのを楽しみにしていた。高校生といういきものは、共感するにはもう遠くなりすぎてしまったけれど、ていねいに描かれている漫画だと思った。自分の高校時代を思い出すというよりは、教育実習のことを思い出した。高校生はまぶしい。まぶしくて愛しい。最近また自分が教員の道を諦めきれていないことを思い知る機会が重なって、どうして自分が教員にならなかったのかずっと考えている。

教育実習は、体力的にも、精神的にもものすごく苦しくて、最高に楽しかった。大学四年間のなかで、あの三週間は何より濃密で鮮烈だった。そうじゃなければ、たぶん深く考えもせずに教員になっていたような気がする。生徒を愛して、生徒に愛されて、そういう時間だったからこそ、私にはこれをなりわいにするのは無理だ、と思った。理由はたくさんあるが、ひとつは、子どもの前で、いつ何時もおとなでいられる自信がなかったことだ。彼らにとっての、親以外のおとなの接点に自分がなることで、おとなや社会に対して絶望させてしまうことが怖かった。希望になれないのが怖かった。彼らのきらめきが自分のせいで鈍ってしまうかもしれない、その重さに耐えきれないと思った。教えたい、という思いの根底にある欺瞞を正当化できなかったのもある。それは自分が優位に立って権力をふりかざしたいという薄暗い欲望にもとづくものではないか、という自らの問いかけに否定を返せない。親になりたくないのもほとんど同じ理由に集約されるのかもしれない。それでもいまだに教員になることを諦めきれていないのは、教員をやっていたら、自分は生きることに手を抜いたりしなかっただろうな、という気がするからだ。おとなとして子どもに接することの重さを、塾や実験教室のアルバイトをしていた頃から真剣に考えてきたつもりだ。子どもに接するときの自分が、いちばんちゃんと一生懸命だった。目の前の人間に向き合って、考えて、ちゃんといのちを削って生きていた。だから教員になれないと思ったし、だから教員になりたいと今でも思っている。五年近くぼんやり考え続けてきたことだったけれど、ここまできちんと言葉に落とし込んだことはなかった。書きながらぼろぼろ涙が出てきて、まだ死んでいなかったんだなと思った。資本主義に迎合する今の生き方を手放して、いつか教員になることを選べる日が来るだろうか。教員免許の期限は平成三十八年になっていて苦笑いしてしまった。あと四年だ。生物学の知識はもうすっかりなくしてしまった。