『ウエスト・サイド・ストーリー』鑑賞後記

※映画『ウエスト・サイド・ストーリー』の内容にしっかり言及しています。未鑑賞のかたご注意ください。

やむをえず出社しなければならなくなった。べつにパーカーにジーンズで出社しようが誰もかまわないところだが、代わり映えしない自分にうんざりしたので、久方ぶりに服をちゃんと選んで、化粧もちゃんとして、指輪もピアスも装備して、香水をつけて家を出た。そうしたら今度はまっすぐ帰るのが癪になってしまった。それで、元恋人の職場の映画館に寄り道をして帰ることにした。上映時間の兼ね合いで、選択肢は『牛首村』か『スパイダーマン ノーウェイホーム』、それと『ウエスト・サイド・ストーリー』くらい。いっそひとりでホラーを見てみようかという思いつきも一瞬頭をよぎったが、映像配信サイトの広告で『呪怨』の映像が数秒流れただけでびびりたおす自分にはいくらなんでもチャレンジングすぎるだろう、と冷静に判断してやめた。マーベルシリーズもほとんど観たことがないからやめておく。こう書くと消去法で選んだようだが、もともと『ウエスト・サイド・ストーリー』は観てみたいと思っていた作品ではあった。とはいえ、アンセル・エルゴートの性的暴行の話は知っていたから、観ようと決断するまでにかなり迷った。迷いながらけっきょく観たわけだけど、どうすればよかったのかはいまだにわからない。そのことさえなければ、観なければよかったなんて気持ちはおぼえなくてすんだであろうことはわかる。でも、観てよかったのかと考えると、それもわからない。ただ、深々と突き刺さって痛い。すっごく好きで、鮮やかに目に焼き付いた場面がたくさんあって、今すぐにもう一度観たいと思う。でもそれと同じかそれ以上に、もう二度と観たくない、という気持ちもある。

TonightやAmericaなどメジャーナンバーを聴いたことはあっても、あらすじはいっさい知らなかった。知っていたらもっといろいろ腹に力を込めて観ることもできただろうが、でも、こういう衝撃をこそ愛しているのだとは思う。いつだって物語に殺されたいと思っている。ただ、それにしても、かなり深く傷つけられた感覚があって、観終えてからずっと平静を取り戻せていない。

言及したい場面はたくさんあるけれど、何よりも、やっぱり終盤でジェッツの男たちがアニタを集団暴行しようとしたシーンがどうしても頭から離れない。物語上、あの展開が必然だったというのがわかっていても、いや、わかるからこそ、やるせなさと悲しさと怒りがずっとある。ああなるしかなかったのだ、というのが苦しいし悔しい。映画館からの帰り道でもこればかり考えてしまってずっと涙をこらえていたし、電車や駅で近くにいる男性のことがうっすらと怖かった。ミュージカル版や1961年の映画版を観たときにどう感じるかはわからないけれど、すくなくともこのスピルバーグ版は、けっこう意図的にホモソーシャルの有害さ、醜悪さを描こうとしているのかな、という印象は受けた(私がフェミニズムの視点でものを見る癖がついているからそう解釈する部分もあるのかもしれないけど)。その邪悪さがもっとも露骨になるのがこの場面だ。もう二度と観たくない、と思うのは、これがあるからだ。正直、もう思い返したくないくらいつらい。思い返さないためにこれを書いている。リフの恋人のグラツィエラや、ジェッツの男とつるむ女たちは本来アニタと対立する立場だが、男たちが暴行におよぼうとしたとき、彼女たちは必死でアニタのことをかばおうとしていた。彼女たちは無力で、あっさりと屋外に追い出されてアニタを助けることは叶わないが、それでも男たちを止めんと声をかぎりに叫びながら外からガラスを叩く彼女たちの青ざめた顔が目に焼き付いている。彼女たちのそういう表情にフォーカスしたカットが入っているところに、女性同士の連帯を描き出そうとする意図を感じた。だからこそ性的暴行の告発があったアンセル・エルゴートが主役を務めていること(出演は告発の前に決まっていたから仕方がないものとしても、それ以降うやむやにしたままでいることのほうが問題)、スピルバーグ監督がそれについてコメントを差し控えたこと、女性俳優陣もコメントこそあったもののあたりさわりのない内容にとどまったこと、すべてがよけいにもどかしく感じる。こういう作品を作れるのにどうして、というむなしさすらある。

好きだった場面の話。冒頭、ダンスパーティーに行く支度をしているところ。シンプルな白いドレスに不満げにしているマリアの腰に、アニタが赤いベルトを巻いてやるシーン。たったひとつ差し色が入っただけでぱっと華やかさが増したことが明らかで、舌を巻いた。マリアが口紅を引くところも同じ理由で印象に残っている。マリアが横で朝食を用意していることなどかまわず、室内に吊られた鮮やかな布越しに情熱的な口づけを交わすアニタとベルナルドに、ダンスパーティーで見事な踊りを披露するアニタとベルナルド。ダンスパーティーで一目惚れをしたトニーがマリアをおいかけてアパートメントにやってきて、マリアの名を歌う場面。水たまりに立つトニーを上から見下ろすアングルで、水たまりのきらめきがそれはもう美しくて、恋に落ちた人間の目に映る世界がいかに様変わりするかが存分につたわってきた。詞は理不尽な現実に対する皮肉が効いているが、リズムが底抜けに陽気なAmericaは、画面に映るすべてがきらきらしていて楽しかった。ここのアニータが魅力たっぷりで、これがもう一度観たくてたまらない。それから、トニーとリフが銃の取り合いをするシーン。序盤のほうで、リフがトニーをダンスパーティーに誘いにドクの店を訪れるシーンがあって、そこでなんとなくリフからトニーに向く矢印には友愛や兄弟愛以外のものもありそう*1だなと感じていたのだが、この銃の取り合いのシーンでそれが確信に変わった。ボーイズラブを愛好する人間ならぜったいにあの官能性は伝わると思うし、ものすごく好きなシーンなので誰かと話したいのだけど、上述の場面があるのであまり人に観てほしいと言えないのが歯がゆい。まだまだある。警察署に拘留されたジェッツの男たちが部屋中を荒らし回るシーン。貧困や虐待など、彼らを苦しめてきた境遇を詞にしたナンバーだが、演出ははちゃめちゃでどたばたですごくユーモラスで楽しい。「俺は反社会じゃなくて反労働!」という言葉が良かった。こういう理不尽を軽妙に昇華する態度こそがあとで伏線となってぜんぶ効いてきたんだな、と今ならわかる。元恋人は「それまで軽口だった貧困や悪が急に牙をむく」という表現をしていたが、まさにそれを正面から食らってしまった。教会にいるアニタが、夜に待ち受けるベルナルドとの情事に胸を踊らせて歌うシーンもすごく良かった。アニタもマリアもかなりはっきりとした女性として描かれていると思うが、とくにこの場面は女が性に主体的でいられることを肯定している感じがして輝いていた。

印象に残っている場面。決闘の場である塩の倉庫で、トニーがベルナルドに和解を持ちかける場面。ベルナルドはトニーのマリアに対する愛情を認めずに「白人が有色人種の女をモノにしてやろうと思っているだけだろう」と激昂する。トニーの愛情が真摯なものであることを、スクリーンのこちら側の私たちはわかるけれど、移民として差別され続けてきたベルナルドにそのことを理解するのは難しかっただろうというのもよくわかる。どうしてトニーをわかってあげないんだ、なんてことを言うのは、私たちにゆるされていないのだ。それと、後味悪くおぼえているのは、ずっとジェッツの一員として認められず手荒な態度をとられつづけていたトランス男性のエニボディズが、リフの死後に、チノがトニーを探し回っていることを伝えにきたときに、初めて仲間として「承認」される場面だ。エニボディズとしては喜ばしいできごとだっただろうと思う一方で、やはりそのあとに続く上述の暴行シーンに代表される「女を排除し、乱雑にあつかうことで男として承認される」というお手本のようなホモソーシャルのことを思うと、エニボディズがジェッツに迎え入れられたことは果たして良かったのだろうか、とも思う。それから、トニーが地上からマリアを見上げて歌うシーン、『ロミオとジュリエット』みたいだなあと思っていたら、みたいじゃなくて文字通り原作だった。そのことを知らなくても気付かされるような演出にちゃんとなっているのだからすごいものだなと思った。たしかに、思い返せばどこもかしこも忠実にロミジュリである。

まだまだ書き残しておきたい場面があった気がするけれど、ひととおり書き出して気持ちが落ち着いたら、泣いた疲れがどっと押し寄せてきたので、ここで筆を置く。もう一度観るかどうかはもうすこし悩むことにする。

*1:saebouさんが同じ読みをされていて嬉しかった:https://saebou.hatenablog.com/entry/2022/02/11/220423