2022/2/22

ああ、またこんな時間まで労働をしてしまった、と思いながらパソコンを閉じた。午後九時半。まあそれでも、一昔前にくらべたらずいぶんまともなほうではある。それからものの数分で夕食にありつく。数日前につくった南瓜の煮付けと、鶏肉の塩麹焼きに長葱とパクチーのソースをかけたもの。かなり美味しい。数日前の自分と電子レンジに感謝しておく。実家には、生まれたときから今にいたるまで電子レンジがあったことがないが、今となっては考えられない。

この二年ほど、人材不足が祟って、経験も実力もないのにチームリーダーをまかされては泣きを見ていたが、ここに来てひさしぶりにいちメンバーとして働くことになった。忙しさはじわじわと増しているが、責任が小さい分だけ気楽である。とはいえ、チームリーダーを務める同僚よりも私のほうが経験でいえば長いので、私が彼女にいろいろ教える構図にならざるを得ない。というか、上司からはそれを期待されてこの立場に置かれている。もともと他者に自分の考えを伝えるということにあまりためらいを感じるたちでもないから、ひとまわり近く上のその同僚にもわりと率直に思ったことを伝えている。彼女も彼女で、私が年下だからといって邪険にするということもなく、真摯に私の言葉を受けとめてくれようとしているのを感じる。傷つけないような言葉選びはしているつもりだが、指摘すべきところを黙っておくことはけして優しさではないと思っているので、指摘の量で言うならけっこうボロクソに近い。それ自体が間違っているとは思わないけれど、さっき彼女とのミーティングを終えてから、ふと我に返った。今、私、気持ちよくなっていた。自覚して心底うんざりしたし、ぞっとした。正論はいつも正しいわけじゃないということを忘れたら終わりだ。醜悪。

このあいだ読んでいたフロムの『自由からの逃走』に、自由がもたらす孤独から逃れるすべとして、個人が自分自身であることをやめる、というのがあると書いてあった。この感覚はよくわかる。周囲が自分に何を求めているのか、どういうふるまいをすべきか、どこまでそこから逸脱してもゆるされるか、その逸脱がゆるされるためにはどうすればいいか、そういうのを読みとるのはたぶん得意なほうだ。そうやって周囲に擬態しているうちに、そちらに飲み込まれつつあるという危機感も、数年前からある。なんなら、その危機感すら薄らいでいる。そうやって、考えることをやめて正解でいることに身をやつすあまり、目の前にいる人間の感情に向き合おうとすることもしなくなったらほんとうにだめだ。一回リセットしたい。自動人形の衣を脱ぎ捨てたい。