2022/2/24

会議の資料が直前になっても作り終わらなくて、泣き言をこぼすためにひらいたインターネットで、戦争がはじまったことを知った。それからあと、何も頭に入ってこなかった。11年前のことばかり思い出していた午後だった。悲しくて、青空が見たくて明るいうちに買い物行こうと家を出たのに、欲しいものがわからなくて店の中をうろうろしているうちに帳がすっかり落ちていて、もっと悲しくなった。酒ばかり買い込んだけれど、飲む気にもならない。何をしようとしても身が入らず、午後九時過ぎに布団に入ったものの、心臓も脳もざわざわとうるさくて眠りにつけない。何を書けば良いのかもあまりわかっていないけれど、私には書くことしかできないのでとりあえず書きはじめてみる。なにかとんでもないことが起きてしまったことはわかるけれど、実際のところ全貌などわかっていなくて、たぶん今私の中を駆け巡っている不安とか焦燥の半分以上は自分のものというより、外界から得る情報によって増幅されたものだろうと思う。理不尽に人が殺されることに怒って、悲しもうとする自分も正しいと思うけれど、とてつもなく間違っている気もする。今だけ怒るのはずるいような気がする。戦争だから。そうだね。戦争には怒らなきゃいけない。だけど、と思う。戦争じゃない理不尽で命を落としたひとびとに対しても、私は同じように怒りを持つことができていたか?11年前、津波の映像を見たくないからテレビを消してくれと半泣きで親に頼んだことを思い出す。知ることも知らないでいることもどっちも苦しい。だって、私は生きている。今命を奪われんとする人たちにどれほど心を寄せようとしても、私は生きることができてしまう。いのちを脅かされずに生きられる側が何を思っても、それは傲慢ではないですか。いのちには遠近感がある。怒るべきことに怒ろうとする思考は、感情から遠く離れたところにある。怒るべきことに怒れる人間でありたい、でも、それは私の怒りではない。ときどき、自分が誰かの怒りに間借りしている卑怯な人間に思える。今もそう。誰も殺されてはならない。誰も軽んじられてはならない。そう唱えたところで戦争が今起きている。

もしわれわれが、われわれ自身の社会においても、個人の無意味と無力さという、どこででもファッシズム台頭の温床となるような現象をみのがすならば、これほど大きな誤謬、重大な危険はない。

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』

フロムの文章を刻みつけるように何度も読み返している。今私がとらわれようとしているこの無力感こそが、戦争を招く態度だと知らねばならない。自分の無価値を手懐ける方法を知らねばならない。戦争をゆるしたくない。

最近、布団に入ってから眠たくなるまでのあいだに、聖書をすこしずつ読んでいる。中学、高校、大学と丸十年、キリスト教系の学校に通っていたけれど、授業以外で聖書を読んだことはなかった。断片的なエピソードは知識としてあっても、ひとつの物語として向き合うのはこれが初めてだ。まだ創世記のはじめのほうだが、ページを繰るたびに腹立たしくなる。性差別的で、威圧的で、権威主義的。今私の目に映る神は、そういうクソみたいな存在だ。なにが全知全能だ、なにが万物の父だ。人を神に似せてつくったというなら、戦争など起こさない生き物につくってくれたらよかったのに。