2022/2/26

九時半に目をさます。携帯から新聞記事をいくつか確認する。亡くなったひとがいることを知る。悲しいことだと思うし、悲しんでもいいけれど、その悲しさに浸っていなければならないわけではない。私たちにできるのは、戦争や暴力に毅然としてNOを示すことだ、と友人は言った。悲しむだけではいけない、ということを今日も忘れずに、NOを思うのではなく、NOを示しながら、私は私の生活をするのだ。それしかないのだ。

晴天だった。起きてまず最初にしたことは、布団をベランダに干すこと。それから家中の窓を開け放って、空気を入れ替えていく。それだけで家のなかがすこし明るくなるような気がする。食パンを卵液に漬けているあいだに皿を洗い、ソファのうえに置きっぱなしだった洗濯物をしまって、コーヒーを淹れた(いまだに美味しく淹れられないのだが、豆を細かく挽きすぎらしいことにようやく気がついた)。フレンチトーストを食べてからは、掃除機をかけて寒さをごまかした。

午後は、ずっと興味のあった教育支援ボランティアの説明会に参加した。この春から、子どもたちに勉強を教えることになりそうだ。教員になりたい自分のなかには権力をふりかざしたいという欲求があるんじゃないかと怖くて、ずっと自分のことをゆるしてやれなかったけれど、つい先日読んだフロムの『自由からの逃走』の中で、教師というのは、教師と生徒という権力勾配をなくすことを目的としているのだ、というようなことが書いてあって、それでかなり気が楽になった。子どもは子どもであるというだけで社会的に弱い存在だ。学ぶことはその弱さから脱却するための手段になりうる。その手伝いができるのならば、こんなにうれしいことはない。

そのあとは2019年の映画『チャーリーズ・エンジェル』を観た。心をあずける友人の心酔する作品とあっては、自分も気に入らないはずがないというのはわかっていたつもりだったのだが、それにしても思った以上におもしろかった。何もかもが痛快でたまらなかった。あますところなく最高なので具体的な感想が言えないのがもどかしいくらいだ。

夜はトマトとパクチーのサラダと、きのこ餡かけのにゅうめんを作った。いずれも完璧。

荒川洋治の『霧中の読書』という随筆集を昨日から読みかじっている。そのなかの『風景の時間』という一編で、彼は、なんの変哲もない、ありふれた風景こそが、人が見ている風景の大半であり、さまざまな作品で魅力的に描写される風景も、実はなんということのないものをそう表現しただけのことかもしれない、と述べる。

詩情が実景をおおいかくしているのだ。小説も詩歌も、よき風景に応えるだけではない。平凡なものにも反応した。(略)こうした地味な風景があることで、ことばが生まれる。思いも生まれた。人から見放されたかのような風景にも意味があるのだ。人はみな、それらといっしょに、とても長い時間を過ごしてきたのだ。

荒川洋治『霧中の読書』

私が生活の断片を日記で書き留めようとするのも、ここにつうずるものがある。何かを文字にするとき、それを文字に残したいと思っている自分がいることにも同時に気がつくことになる。それがおもしろくて書いている(もっとも、あまりに詩情を取り込もうとすると、狙ったエモさが鼻につくのが難しいところ)。

数ヶ月前、こんなことを書いた。

個人を埋没させ人権を蔑ろにするファシズム国家こと2021年の日本にあって、個々人が生きていることをつまびらかにすること、日常茶飯的な存在証明こそ、大事にすべきものなんじゃないか。このところ、とにかく記録する、言葉に、文字に、自分の生活を残すことをより重んじるようにしているのには、そういう意図もある。それくらいなら私にもできるのだから。

今、この思いを新たにする。私が書き残そうとする生活は、平和のうえにこそ成り立つものである。今すぐにいのちを脅かされることのない場所から平和をもとめ、反戦をとなえることは、あるいはずるさかもしれないけれど、この世のすべてのひとが、安全な場所から平和を求めていいし、求めなくてはいけない。戦争をしたがる愚か者たちのことをぜったいにゆるさない。

私は生活する。「私は」と「生活する」のあいだに、ふだんは明示されない言葉がある。悲しいことに、暗黙の了解として共有できていたはずの前提を、言葉にしなくちゃいけない世界になってしまった。だから私は、戦争に反対して、生活する。