2022/3/15

このあいだ図書館に行ったとき、小川洋子の『海』という短編集を借りた。どれも有機的な冷たさに満ちたやわらかな物語ばかりでとても気に入ったのだが、ひときわ印象に残ったのが、『缶入りドロップ』という、幼稚園のバスの運転手を務める中年の男が主人公の掌編だ。文庫本でたった二ページ、おそらく千字にも満たないごく短い話だけれど、つよく惹きつけられた。その体験は、ちょっとした衝撃だった。物語は、こんなに短くてもいいのだと、なんだか自由を教えられたような気がした。千野帽子氏が解説でこの掌編のことを「スケッチふう」「素描」と評していて納得した。私は何もかもを書き残そうとするあまり、冗長な文になりやすいから、スケッチをする感覚で文章を書いてみるということをやってみてもいいのかもしれない。

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一週間前に花屋で買ったブーケにスイートピーが入っていた。淡いピンクや紫の花がかわいらしかったのだが、数日も経つと花が落ちて豆になった。窓辺に花瓶を置いているので、毎朝カーテンを開けるごとに、すこしずつ大きくなっていく豆と顔を合わせることになる。おいしそうなのだが、スイートピーには毒があるそうだから食べられない。ただおいしそうだなあと思いながら毎日眺めていたところで、昨日、食料品店に買い物に行ったら、絹さやが安くなっているのに目がとまった。つい買ってしまった。肉じゃがの飾りにいくつか使ったが、まだたくさんあるので、胡麻和えにするか、味噌汁にするか、塩胡椒でさっと炒めるかで悩んでいる。

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生活の音、というのが好きだ。とりわけ好きなのは、液体を注いだときにぱきりとかたい音を立てて氷にひびが入るとき。風呂からあがって、グラスを冷凍庫につっこむ。髪を乾かし終えたところでグラスを取り出すと、じゅうぶん冷えているのであっというまに結露して曇る。氷をグラスに落とす。からんころん、これも好きな音。飴色のウイスキーを注ぐ。ぴきぴきぴき。口元がゆるんでしまう。サントリーの知多。昨年の連休に元恋人の家で飲んですっかりとりこになって、そのあと自分でも買った。冬の入り口あたりだったか、元恋人が遊びに来たときにふたりで飲みきってしまった。すっかり酔っ払った元恋人が突然家を出ていって、何事かと思ったら、しばらくして新しい瓶を買って満足げに戻ってきたことがあった。今飲んでいるのはそのときの瓶だ。

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私の家のベランダからは、コインパーキングが見える。わりあい大きな道路が近くを通っているのと、商店街からそう離れていないこともあってか、昼間はいつもそれなりに埋まっている。それが、夜になると空っぽになる。それを見るたびに、駐車場が呼吸をしているようだと思う。どの車にも帰る場所があるのだ、と思うとすこし不思議。誰もいない駐車場はちょっとさみしそうにしている。

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夜の空気が心地よくて、今日も仕事を終えてからしばらくベランダで煙草を吸っていた。ふだんは煙をあまり深く肺に入れないようにしているが、今日は春の空気と一緒に味わいたくて深々と吸い込んだら案の定ヤニクラにやられた。慣れないことはするものじゃない。眼下をとおる人々が私の存在に気づくことはない。みんな下を向いている。

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午前一時十五分。ようやくFling Posseの新曲を聴いている。思った以上に泣けてしまって、ぐちゃぐちゃになっている。私はシブヤの三人が好き。好きでうれしい。刹那の友なんて言っていた三人が、「永遠を信じちゃうくらいにいい時間」とか「今生の別れ目まで」とかいう言葉をためらいもなく口にするようになったことに胸が詰まる。シブヤという場所が彼らの居場所になる。彼らがシブヤを居場所にする。彼らは、この場所で三人でいることを選んでいる。刹那にさせない、という意志がそこにある。愛は状態ではなく意志だ。あいまいな距離からここまで歩いてきた三人のことが眩しいし、同時に希望でもある。優勝、ほんとうにおめでとう。