2022/3/20

読みさしの本を読み終えたら帰る、と言って、夕方まで実家に居座っていた。ほとんど丸ひと月かけて、ようやくセーレン・キェルケゴールの『死に至る病』を読み終えた。

キェルケゴールという人のことは、高校の頃、無神論と有神論についての倫理学の授業で知った。死に至る病とは絶望のことであるという主張には、高校生なりに共感をおぼえたし、だからこそ強くその名前を記憶したのだが、そこからの救いとして信仰を説いたと聞いて、ひどく失望したことを覚えている。それは、「神を信じることができる人のための哲学なんだ。神を信じられない私を救ってくれるものではない」という疎外感に似た失望だった。そこから十年以上が経った今初めて、その認識が誤りであったことを知る。これは、神を信じない人のための哲学だ。

どうやら自分は今絶望の状態にあるらしいということに思い至ったのは、ヒプマイの楽曲『Stella』の歌詞を読み込んでいたときだ。死に至る猛毒、というリリックから死に至る病を連想して、インターネットで聞きかじった浅い知識をたよりに咀嚼しているうちに、キェルケゴールが有限性の絶望とか、必然性の絶望と分類したものが自分のことを言い表しているように思われてきた。この時点ではまだ、彼の哲学は神を信じる人々のためのものだと思い込んでいたので、どれほど自分にとって意味のあるものだろうかと懐疑的でいたものの、中途半端な知識を振りかざすだけでいるのにも恥ずかしくなってきたので、どうせならちゃんと読もうと思って手にとった。内容を半分も理解できているかあやしいものだが、それでも理解できた(ような気になっている)ところだけでも、たしかに救いの手がかりを提示してもらえたように思う。より神学的な観点が強いとはいえ、先月読んだエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』とかなり重なる内容も多く、自分の今の状態を定義する助けになったことには違いない。まだ漠然としていて、言葉にまとめることまではできていないけれど。

キリスト教校に通い続けてきたから、周りにキリスト者はすくなくない。信仰を持つに至ったきっかけについての話を聞く機会というのも幾度かあった。なかでもおぼえているのは、あるとき光に包まれた神の姿を見た、という人の話だった。こましゃくれた子どもだった私は、胡散くさいものだとなかば鼻で笑いながら聞いていた。今にして思えば、そういう他者の信仰を軽んじる姿勢の一端は、自分に天啓が訪れないこと、神に選ばれない人間であることをみとめるのが悲しかったということにあったのかもしれない。ちなみに私のこういう姿勢を、キェルケゴールは第二編「絶望は罪である」の第一章付論「罪の定義が躓きの可能性を孕んでいること、躓きについての一般的考察」の中で言い当てている。

人間がキリスト教に躓くのは、キリスト教があまりに高いからであり、その目標が人間の目標ではないからであり、そしてキリスト教が人間をふつうではないものにしようとするにもかかわらず人間にはそのことが自分の頭ではよく理解できないからである。

セーレン・キェルケゴール『死に至る病』(講談社学術文庫、鈴木祐丞訳)

この本を読んで自分の中で起きたもっとも大きな変化は、「神を信じるか」という問いは、けっして「神を信じられるか」という問いと同義ではないということを理解したことだった。信仰するというのは、愛することがそうであるのと同じように、意志の世界の話なのである。そして信仰は、信用ではない。クリスチャンだった高校の部活の先輩が、「キリスト教はご利益宗教じゃないんだよ」と話していたことが今でも鮮やかに記憶に焼き付いているのだが(部活帰りの駅のホームだった)、彼の言わんとしていたところにも、すこしだけ近づけたような気がする。

そしてもうひとつ、私が十年間ともにありながらなおキリスト教に対して懐疑の目を向け続けてきたもっとも大きな理由でもある、「人間が神に似せて作られたというのなら、なぜ人間はこんなにも愚かで、世界はこんなにも不完全なのか」という問いの答えもすこし見えてきた気がする。神は人間を神に似せて作ったのであって、人間を神と同じに作ったわけではない、ということだ。

先月書いたなかに、こんな文章がある。

真に善なる人間なんてもはや神の域だし、そんなところに行っちゃったらおもしろくないでしょう。思うに、いのちを無駄にする瞬間にこそいのちは価値あるものになりうるのではないか。人間を、理性を持つという点でほかの生き物と一線を画す存在としてあつかう向きもあるが、それでいうなら、向上心だとか誠実さだとか勤勉さだとかそういうのうっちゃって、高邁な生き物であろうとすることを放棄して怠惰と強欲と嫉妬と淫蕩にみずからまみれることこそ、理性を持つ人間だからこそできるおこないであると考えることはできまいか。

この考えはまったく正しかった。そして、(私の理解が正しければ)キェルケゴールが「絶望して自分自身であろうとする自己」と言い表したものでもある。

人間と神の差異がもっとも際立つのは、人間が罪人であるという点、一人一人が罪人であるという点である。

セーレン・キェルケゴール『死に至る病』(講談社学術文庫、鈴木祐丞訳)

信仰は、継続的な罪の状態から抜け出すのに必要なものだ。人間のデフォルトが罪で、そこから人間を上に引っ張りあげるものが信仰だ。信仰は状態ではなく意志であり、すなわち善を志向することだ。よくあろうとすること、それが信仰を持つということなのだ。「正しくあれないとわかっていても、正しくあろうとすることをやめない」。それは、ずっと前から私が自分に求め続けてきたもので、最近すこしばかり見失いつつあったものでもある。それを、信仰という観点から肯定されることになるとは思いもよらなかったし、とても、うれしかった。

理解しきれなかった、と感じる部分はたくさんある。意味を拾えなかった文章もあれば、解消されなかった疑問もある。たとえば、どうして神は人間を神と同じに作らなかったのか、とか。それでも、これから先立ち返る場所のひとつとして、この本に出会えたことが幸福だと思う。なんだろうな、ちょっぴり身軽になった気がする。