2022/3/24

退職の決まった同僚の壮行会で、同僚数人と食事をしたのが数日前のこと。同じ場所で働く人たちにそれ以上の愛着も興味もないし、いなくなる人に媚びを売る意味も別にないと思ったけど、それなりにかわいがってもらったのも事実で、なんとなく妙な義理を感じて行ってしまった。馬鹿なことをしたと今は思っている。感染症のリスクをとってまで行くようなものじゃなかった。遅効性の毒が今さらまわってきた。

けっこうな規模の企業だから、それはまあいろいろな人がいる。そしてその場に集まった人たちは、私もふくめて皆どちらかといえば仕事ができるほうに分類される。能力主義はくそくらえだ、といくら私が言ったところでそれが欺瞞にしかならないのは、私がその能力主義の構造で恩恵を受ける側にいるからで、私はずっと自分のそういう卑怯さに辟易している。とはいえ、評価されるがゆえにふりかかる理不尽とか重責とかがあるというのもほんとうだ。その夜そこに集まったのは、そういうものを、多かれ少なかれ共有できる顔ぶれだった。いきおい、そこにいない誰かを悪し様にいう流れも生じる。そこで調子をあわせて笑うことができていた自分にも、そのことに数日経つまで苦しさをおぼえずにすんだ自分にも、反吐が出そうだ。会社の人間とは深くかかわりあいにならない、とはいったって人間と人間の付き合いだ。そこに感情が介在しないなんてことはありえないし、だから傷つかないためには同化して馴染む以外に方法がない。シャカイジンのお面を顔に貼り付けて生きるのは、年を重ねるにつれうまくなっている。彼ら個々人がその場にいない人のことをどう評価しようと、嫌おうと、それは彼らの自由だ。でも集団でそれをあげつらって話題のネタに仕立て上げることは、それとは全然次元の違う話だ。あれはホモソーシャルな空間だった、ということに思い至って背筋が冷えている。あの場では、それがゆるされる空気だった。私はその構造に加担した。たちが悪いのは、それが仕事という免罪符のうえに成り立つものだということだ。あくまで仕事がうまくいかないことに対する愚痴、という体裁を取り繕えてしまう。私のことも、きっと同じように私のいないところでくさしているんだろうと思う。そのことは別にかまわない。ただ、そういうのを裏でひそかに共有しあって、仕事では笑顔で一緒にやっていく、その二面性がグロテスクで心底気持ち悪い。何が本音と建前だ。そんなもんが美徳であってたまるか。

ずっと再読を先のばしにしていたまほやくの1.5部に、昨日になってようやく向き合う覚悟がついたのも、今日映画を立て続けに見ているのも、自分の内側にきれいなものを流し込んで空気を入れ替えたかったのかもしれない。不誠実に身をやつしたくない。これを仕方ないことだと割り切りたくない。私はそっち側に行きたくない。まっすぐ立たなくては。