2022/3/26

数日外に出ずにいるうちに、駅前の桜はふつふつと咲きこぼれていた。いつもなら木の下で携帯をさわりながら待ち合わせをする人々が、今日は皆、待ち人のことなど忘れたように改札に背を向けて花に触れたり、写真を撮ろうとしたりしていた。それをからかうみたいに強い春風がびゅうと枝を揺らしていて、本格的に春が来たのだと知った。曇天に薄紅の花弁の輪郭が曖昧に溶けなじんでいた。

友人らと落ち合って食事をとって、誘ってもらった舞台を一緒に観た。ヒプステの配信公演を観て踊りに惹かれた俳優が出演しているので行くことにしたものだ。生で観る彼の踊りは、なおのこと切れ味が鋭くて、思わず笑ってしまうほどだった。精緻な計算のもとに、正確に実行される、無駄の何ひとつない動きは、簡潔な数学の証明とか、規則正しく形を成す鉱物の結晶とかと同じたぐいの、幾何学的美しさとでも形容すべきものだった。人間の肉体のすべてを、あんなにも意識の支配下に置くことができるのだ、というのはほとんど理解の及ばない世界だ。それを観たくて行ったので、目の当たりにできて嬉しかったけれど、できることならもっと観ていたかった。

公演の帰り、友人たちに付き合ってもらって、気になっている俳優の写真集を購入しに書店に寄った。年明けに見たヒプステの公演映像で知って、その日から徐々にその人に心を奪われつつあることはうっすらと自覚していたけれど、好きだとみとめるには抵抗感があって、育ちゆく感情を直視せずにそのままにしていた。でももう引き返せないし、引き返したくないな、と帰宅してさっそく開いた写真集の1ページ目で思った。数日前に写真集を買おうか迷っていることを友人に話したら、購入の立会人になってくれるというので、背中を押してもらった形で購入を決めたのだけど、買うことにしてほんとうに良かったと思っている。

好きだとみとめることに対する抵抗感というのは、「演じる人」を好きになるということについて、自分のなかで納得のいく立ち位置がいまだに見つかっていないことにもとづく。オタク心ついてからの十五年、二次元→V系バンド→K-POPアイドル→二次元、という遍歴でやってきたから、演じる人と演じられる人の人格の二重性に直面するようになったのは、半年ほどまえに斉藤壮馬さんを好きになってからのことだ。

演じる人、というのは窓の硝子のようなものだと思う。窓枠にはまる硝子の色や透明度によって、鮮明に見えたり歪んで見えたり、明るく見えたり暗く見えたり、部屋の中から見た外の景色は違って見える。でも、外の景色に興味がある人にとって、窓はただの媒体だ。はっきり見えなかったら気になるけれど、そうでなければ意識することはない。

映画・ドラマやアニメ、ゲームといった映像・音声作品と、ミュージカルや演劇のような舞台の大きな違いは、窓の外の景色と窓そのもののどちらを売りにするか、というところにあるのではないかと思う。後者は、鑑賞者と舞台の上の世界が同じ空間に存在している。そこでは、生身の人間の三次元的な身体性は、鑑賞者にとって無視しようのないものになる。それに対して前者では、鑑賞者は「窓」と物理的空間を共有できないから、その存在を知覚しにくい。観劇が元から好きで、演じる人に惹かれるという経験は初めてではないはずの私が、壮馬さんを好きになって初めて演者とキャラクターの二重性に思い至るようになったのも、前者では外の景色にばかり気をとられて、そこに窓があることにそれまで気付いていなかったからである。

もっとも、私が壮馬さんを好きでいようと思った決め手は彼の書く文章であって、はじめから斉藤壮馬そのひとに惹かれたというのがはっきりしている。だから、演者とキャラクターの二重性そのものに戸惑っているというよりは、演技をなりわいの主軸とする人に対して私がいだく好意の大部分が、文章や作詞作曲といった演技以外の要素で占められていることについてのうしろめたさというか、申し訳なさみたいなものを持て余しているというのが正しい。文章や音楽もまた、芝居と同様に彼を構成する一要素であると考えることはもちろんできるし、それは間違いではないだろうけれど、それって「声優の」斉藤壮馬さんを好き、とは言えないのでは?という思いがある。彼が声優をやっていなければ私が彼を好きになることもなかったのに、それってなんだかずるいような気がするから、どこかうしろめたいのだ。かといって、彼を好きでいることと、彼の出演作や、彼の演じるキャラクターを好きでいることとはぜんぜん別の話だし、好きなひとが出演しているからというだけで、愛していない作品まで消費することは、作品に対する姿勢として不誠実に思えてしたくない(好きなひとが出演していることを契機として作品やキャラクターに出会って好きになるということはあるだろうけれど、そのすべてを愛せるわけはない)。ファンにゆるされるのは仕事をしている彼を好きでいることなのに、仕事をしている彼は、彼以外の人間であることのほうが多い、というのが、どうにももどかしく感じるときがある。

そう考えると、窓を見に来る人と、景色を見に来る人の両方が邂逅する汽水域をあらわす言葉として、2.5次元というのはうまい表現だと思う。もともとヒプマイの原作ファンである私は見える景色のほうに興味があったし、だから、ヒプステで帝統を演じる滝澤さんを観て直感的に好きだなと思ったときにも、その好きの対象はあくまで滝澤さんではなく、もとからキャラクターとして入れ込んでいる帝統のほうだろうと思っていた。

そのことをたしかめたくて、滝澤さん個人の活動もいくつか見てみたりして、一時はやっぱり帝統のことが好きなのだろうと結論付けたこともある。ちょうど二ヶ月前の自分は、「魅力のあるひとだと思ってはいるけど、同じパフォーマンスをやってくれていれば、たぶん滝澤さんじゃなくても好きだったと思う」とつぶやいていた。そう、誰かを好きになるということはけっきょくそのひとの代替不可能な何かにとらわれるということなのだ。

転換点になったのは、帝統のソロ曲をもう一度観たいあまりに、ヒプステのブルーレイを購入して再鑑賞してからだったと思う。といっても、壮馬さんの文章に出会ったときの、雷に打たれるような天啓とは違う。はじめは楽曲に惚れ込んで、パフォーマンスも好きで繰り返しそこばかり見ているうちに、いつのまにか水の中にいた感じ。水の中にいる、と気付いてしまえば、あとは重力に抗わずに身を委ねるだけだった。彼に惹かれていくにつれ、炭酸が舌の上ではじけるような、ちりちりとした幸福があって、それが心地よかった。SNSをフォローして、ずっと敬遠してきたtiktokをインストールして、毎日更新される短い動画を観るたびに心が動くのを感じて。わざわざ自分から水底めがけて潜ろうとしなくても、好きは自然と強化される。

今日買った写真集は、私を水底にとどめおく重りになった。顔いっぱいにくしゃっと笑うところがたまらなく魅力的なひとだけど、いっぽうでところどころに散りばめられた鋭い表情がはっとするほど鮮やかなコントラストを際立たせているし、踊りからうかがえる体のしなやかさは、静止画になってもたしかに美しくて、美術館で大きな絵画を見上げたときにこぼれるのと同じようなため息をついてしまった。どの写真もすごくよかった。メイキング映像で、自分でも知らない自分に出会いたくてほとんどスタッフにまかせきりにした、と言っていたのも好きだなあと思った。

何より、インタビューがすごくよかった。もともと踊り方がすごく雄弁なひとであること(本人もこのインタビューで言っていたけれど、とにかく踊ることが楽しくて仕方ないという顔をして踊るのだ)もあいまって、どちらかといえば言葉での表現はそこまで彼にとって優先度が高いものではないんじゃないかと勝手に思っていたのだけど、重力に身を任せているばかりで積極的に情報を取りに行こうとしていなかった私が悪かったと反省したりもした。インタビュアーが良いのもあるだろうけれど、彼が彼自身について語る言葉は沈着で明快で、すっかり好きになってしまった。自分のことをすごくよく見ているひとだし、大事にしようとしているひとでもある、というのがこれを読んで思ったことだった。壮馬さんにしてもそうだけど、自分の好きなことや自分自身に対して真摯でいようとするひとが好きだから、腑に落ちたようなところがある。好きになるべくしてなった人だった、というのを購入に立ち会ってくれた友人に連絡したら、やっぱり私たちは言葉が好きだからね、と返ってきて笑った。好きなひとが好きな言葉をつかって話してくれるのは嬉しいことだ。

来月末にイベントがあるというので、チケットの抽選を申し込んだら、その日の晩、当選メールが届く夢を見た。ほんとうの結果は数日後に出る。

書き散らしたらまとまりのない話になっちゃったな。楽しい日でした。