2022/4/9

酔った元恋人が深夜になって家にやってきて、そこから午前四時近くまで酒を飲みながら話し込んだ。話題はいつもながら他愛のないことばかりである。ホラー映画について熱っぽく語られて、怖いものが苦手な私はずっと顔をしかめていた。

午前中に起きて家事をすませるという目論見は当然ながら失敗し、酒が残っているという元恋人を送り出したあとは、皿洗いだけ終わらせて身支度をして家を出た。春というよりは初夏の気配すらにじませる日差しを肌に感じながら、二十分ほどの道のりを歩いてボランティアの会場へ向かう。ひとけのない休日の昼下がりに、家々の合間を歩くのが好きだ。道のすきまのあちこちで花が咲きみだれていて、すっかりうきうきした気持ちになった。

ボランティア先は、子どもたちに学校や塾以外の学習の場所を提供するNPO法人である。学生時代の実験教室や学習塾でのアルバイトで、教える側として子どもと接することには慣れているほうだと思うけれど、それでも数年ぶりのことなのでずいぶんと緊張した。担当した生徒とは、はじめのほうこそぎこちなかったものの、一時間もすると好きな漫画や歌手について向こうから話してくれるようになって、そのことが嬉しかった。

子どもたちに教えられることが多い、というのは教える立場の人間がしばしば口にする定型文だが、これは掛け値なしの真実だ。子どもにはごまかしがきかない。それは私が五年間の講師経験や教育実習をつうじて嫌というほど思い知らされたことであり、私が教員を諦めた理由でもあり、同時に諦めきれない理由でもある。彼らの前で、私は丸裸にされる。今日も「数字ってどうやってできたか知ってる?」と訊かれて答えに窮した。ソクラテスさながら、彼らは無邪気にいろいろなことを尋ねてはこちらの無知を暴いていく。

私が教える立場への執着を断ち切れないのは、愚かさをごまかすことをゆるさない鋭い視線の中に身を置くかぎり、自分が善くあろうとすることをやめないでいられるだろうという、徹頭徹尾、自己中心的な動機によるものだ。おとなと子どもは、ぜったいに対等にはなりえない。そこには権力の勾配がかならずある。それはつまり、私の言葉ひとつ、ふるまいひとつで、彼らに致命傷を負わせることができるということだ。だからこそ、おとなにできるのは、誠実でいようとすることだ。私はあなたの言葉をないがしろにしない、ごまかさない、はぐらかさない。絶対的強者たるおとなとしての自分を自覚せざるをえない場所にいることで、自分を戒めていられる。子どもと接しているときの自分が、いちばん誠実でいられて好きだった。これは、そういう権力の偏りのある環境でしか他者に対して誠実でいられないという醜悪な告白でもある。

そういう、きわめて独善的な動機から子どもに接することに、今でも後ろめたさはある。「教員になりたい」「教職に就きたい」と言うことはあっても、「教師になりたい」とは言わないのは、師になることを望んでいるわけではないからだ。とはいえ、独善的であることそれ自体が悪ともかぎらない。それは所詮、私の内側の話にすぎない。おとなには、この先彼らを待ち受ける理不尽をできるだけ少なくする責任があるけれど(こう信じることは私が左派フェミニストであることの根拠である)、理想郷の実現が遠い以上、彼らが理不尽に対処できる手段を増やしてやることも同様におとなの責任だろうと思う。学ぶことはその手段のうちもっとも強力なもののひとつだ。教師というのは、おとなと子どもの権力勾配を均す職業である、というエーリッヒ・フロムの言葉は、だから光であり指針でもある。教えるというあり方は、私にできる社会への責任の果たし方のひとつであり、私が望む社会とのかかわり方でもあるのだ、ということを考えながらボランティア会場をあとにした。子どもたちに恥じないおとなであるために、背筋を伸ばしていたい。