2022/4/8

前の晩になって生理が来たことを確認して、今、おもしろいくらいに落ち込みの時期を抜けた感覚がある。すこんと気持ちの底が抜けたようで、さながら今日の空のような青く透きとおった気持ち。この数日、朝目を覚ますたびに淡い希死念慮に苛まれていたので、自分の体の素直さが一周まわって愛おしくすらある。腹は立つけれど。とはいえ、気分の変調の幅はすっかり落ち着いたものだと思う。すべてを終わらせることに考えが流れがちなのは、かつてその思考を繰り返しなぞって轍を深く刻みつけてしまったせいで、水が低きに流れるようなものだから、きっとこの先も変わらないだろう。でも、生きていくのがつらくてつらくてたまらない、というあの身を引き裂かれるような感覚は、ずいぶんと遠いものになった。それがかならずしも良いことだとは思わない。楽に生きていけるようになったということは、苦しみを無視できるようになった、ということだから。無視されるのは私自身の苦しみであると同時に、他者の苦しみでもある。他者の苦しみをそこにあるものとして甘受できるようになってしまった、ということを喜べるはずはない。だが、空の青さをそのままにいつくしめることはやはり嬉しいと思う。

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良い陽気だ。書斎にはちいさな突出し窓がふたつあって、そこから憎たらしいくらいの青空が見える。昨年の連休のとき、元恋人の部屋に泊まって、朝からひたすらサンドイッチを作って、それをもって近所の公園まで日向ぼっこをしに行ったことを思い出した。あの日もこんな空の色をしていた。そのときの日記を読み返したら、こんなことを書いていた。

知り合って七年、交際を終えて四年。交際していた期間は一年にも満たなくて、交際を終えてからの付き合いのほうがずっと長い。大学時代の共通の友人には「おまえら、まだ連絡とるんだ」と驚かれる。よりを戻さないのか、という意味合いを含んだ問いかけに、私が肯定を返すことはない。今後恋愛関係になることはないし、なんならたぶん恋愛関係であったこともない。元恋人のことはずっと何もわからないし、あまりわかろうとも思わない。好きだなと思うものがわずかに重なっているだけの、かぎりなく他人。会話が途切れることはほとんどないけれど、私たちはお互いについて語る言葉をあまりにも持たなさすぎるんだな、と思った。

ここから一年が経つ。もう関係が変わることもないのだと思っていたが、案外私たちはまだちゃんと有機的に変遷している。最近は他人よりもずっと近いところにいる。つい先日、同じ友人に同じ問いを投げられた。肯定こそしなかったけれど、否定も返さなかった。お互いについて語る言葉を持たないのはあいかわらずのことだが、それではいけないという意識も最近は共有している。どこにゆきつくものなのかは見えていないが、後退ではなかろう。いずれにせよ、失いがたい相手であることは五年前から変わっていない。