2022/4/17

ナイトメアのアルバムツアーのファイナルだった。ほんとうに楽しかった。

好きになってから十五年弱、うち六年ほどは離れていたので実際のファン歴は十年にも満たないけれど、私の人間の核を成すといっても過言ではないバンドだ。熱が再燃したのは大学を卒業してからしばらく経ってからで、その時彼らは活動休止中だった。他のヴィジュアル系バンドも聞きかじってはいたものの、入れ込むとまでは行かないまま局所的にナイトメアだけを好きでいた私にとって、ヴィジュアル系のライヴは未知の世界だった。横浜アリーナでの復活ライヴは、勇気が出ずに参戦を断念した。感染症の流行なんかもあって、けっきょく指をくわえたまま、丸二年ほど在宅でライヴの配信ばかりを見る日々を過ごした。すこしずつライヴに行きたい気持ちを降り積もらせて、それが飽和したのが昨年の年末。感染症に対する恐怖心が摩耗してきたタイミングと重なって、とうとう思い切ってチケットをとった。ところが、十年ぶりの生ナイトメアだったというのに、振り付けの文化に緊張していたばかりに、ライヴの記憶はほとんどない。終始夢を見ていたようで、実感がわかないまま時間が飛ぶように過ぎてしまったことがかえって悔しく、だからその日の最後にアルバムツアーが発表されたときにはもう迷いはなかった。

はたして今回、心の底から楽しむことができて、ほんとうに嬉しかった。二階席の中腹あたりで、表情こそよく見えなかったものの、メンバーも楽しそうにしているのがよくわかった。大きな会場で、双眼鏡で好きな人の一挙手一投足を追いかけるような、すなわち視覚に軸足をおいて楽しむアイドルのコンサートに慣れている身からすると、聴覚主体のバンドのライヴというのはまるきり異質な場所だ。ただでさえステージと客席の距離が近いし、ましてやヴィジュアル系のライヴともなれば、首をぶんぶん振り回していたりして、ステージの上の奏者を見るどころではない。だけど、それで良いのだ、というのを肌で理解することのできたライヴだった。同じ空間で、轟音に身を委ねて、内臓がしびれるようなベースを浴びて、あの内側からふつふつと沸いてくる熱を共有することが大事なのだ。楽しみ方がわかってしまえば、のめり込むのは容易い。焼き付けようとしなくていい、徹底的に刹那的であればいい。演奏される場のことをライヴ、と最初に呼んだ人はすごい。いのちの熱量がはじけるところ。アイドルを追いかけていたとき、感情や記憶が砂のように手をすり抜けていってしまうのが怖くて悲しかったけれど、そういう怖さは、この日はなかった。今も惜しいとは思っていないのは、たぶん何も失っていないからだ。ただすこしだけ、強欲になった。全然たりない。もっとライヴに行きたい。その気持ちに突き動かされて、帰宅してから、六月の誕生日公演のチケットをとった。

先月、七年ぶりのアルバム発売の時に、インストアイベントに初めて行った。緊張のあまり話そうと思っていたことが全部頭から消し飛んだ結果、咲人さんに「私の嗜好とか美意識は咲人さんに作られてるようなものです」などと気色の悪いことを口走ってしまって、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしたけれど、その言葉に嘘はない。ライヴ中、咲人さんの姿を視界にみとめるたび、この人が私の指針だ、という不思議な直感に撃たれていた。それはステージの上での華やかな姿に心を奪われるとか、そういう表層的な高揚感ではなくて、この人の生き様は私の希望だ、という静かな感銘だった。太陽というよりはどちらかといえば月のような人だと思うし(これは咲人さんだけでなく、悪夢の名を冠するバンドだけあって、夜に近い人たちだと思う)、そういう人だからこそ作る音や詞に惹かれ続けてきたわけだけど、そういう人がああして刹那、恒星のようにまばゆく輝く姿を見せてくれていることに奮い立つものをおぼえる。私にもどこかにそうして光を放てる場所があるのだ、と信じたくなるから。

Ni~yaさんがアンコールMCで「俺ら、良いアルバム作ったなあ!」って満足げに言っていたのがすごく好きだった。ほんとうに良いアルバムだと聴けば聴くほどに思う。光と闇、というアルバムタイトルは、二十一年という星霜をともにしてきた彼らにしか出せない滋味がある。今の彼らが奏でる闇はやわらかくて穏やかだ。もっと黒々とした密度の濃い闇を歌っていたこともあるけれど(the WORLD Rulerの曲なんかがそうだ)、NOX:LUXは、星がちらちらと瞬く濃紺の空みたいなアルバムだと思う。荒っぽさの中に美しさがある音の魅力はゆらいでいないと思うけれど、一方で彼ら自身も、その音も、変化していることもたしかである。咲人さんはMCで「涙腺が弱くなったのはジジイになったからかな」と照れたように言っていた。五十周年を迎えて、車椅子に乗るようになっても(その頃彼らは古希を迎えることになる)同じようにライヴをやりたい、とも。知らないところでさまざまな軋轢や迷いや葛藤があったことだろうし、活動休止だってあった。Ni~yaさんは、活動休止が決まったときの心境を問われて「絶望でしたね」と話していた。光があって、闇があった。彼らの音楽とともに生きてきた十五年のあいだに、中学生だった私が三十代を目前にするところまで来たように、彼らもまた、二十一年、ずっと同じだったわけじゃない。有機的に生きる、ということについて、このごろよく考える。加齢にともなって自らにおこる変化を肯定的にとらえること、と言い換えることもできよう。彼らを見ていると、歳を重ねるということは良いものだと思わされる。あの五人が変わらずにあるから好きなのではなく、変わり続けながらも五人でいてくれるから、今の彼らのことが好きだと思う。