2022/7/7

またしばらく日記をつけない日々が続いている。一週間が飛ぶようにすぎていく。それでも仕事で忙殺されているときは、まだ仕事をしていたという体感だけは残るのだが、こうも穏やかで残業のない日々となると、ほんとうに何をしていたのかよくわからないまま一日が終わっていくので、心もとない。

昨日、セブンティーンのリーダー三人の新曲が公開されていた。それもすごく良かったのだけど、その流れで彼らの映像をいろいろ観ているうちに、すこしずつ、私の奥にくすぶっていた熱が呼び起こされてきた。今この体を満たす、新鮮で、それでいてなつかしい感覚が鮮烈で、それを残しておきたくて夜更かしをしている。

ジュンくんのことを月のような人だとたびたび形容してきた。本名の名字が韓国語でmoonと表記されることも手伝ってか、ファンのなかでもそのイメージは共通していて、SNSで誕生日を祝うときのハッシュタグの文言も、毎年月にからめたものになっている。メンバー全員がいたずら好きで少年らしくて落ち着きがないと口をそろえる人でありながら、ファンの前ではどこかひかえめな印象を残すところも、太陽よりも月を思わせるのだろう。

でも昨日、今日とひさしぶりにまともに映像を見て、なんておそろしい人だろうと思った。月のおだやかさ、しんとしたつめたさを慕わしく思って手をのばしたら、その瞬間に焼き尽くされる。HOTのフォーカス映像を見て、心臓に炎をうつされたかと思った。

彼らのことを好きでなくなったことは、この五年間、一度もない。それは断言できるけれど、そのあいだ、ずっと同じ熱量でいられたわけではない。真摯に愛し続けてこなかったことを、どこかずっとうしろめたく思ってきた。それは自分は「良い」ファンではもはやないのだ、という後ろめたさだ。今、ようやくそれを壊せそうな気がする。

ずっと運命を探し続けている。一瞬で心を奪われ、深々と魂に刻みつけられて、それからもう離れられないと思うような、劇的に刺激的な何かをずっと探し求めてきた。プラトンの人間球体説を飽かず創作の題材にするのは、ほかでもない私がたましいの片割れを探し求めているからである。ジュンくんのことを好きになった五年前、この人がその欠落を埋めてくれる運命なのだと、この人が光なのだとたしかに思った。でも、時間が経つうちにその熱はすこしずつ失われていった。そのことを、運命でなかったことの根拠にした。ほんとうに好きなものだったら、熱が冷めるはずがないのだと思っていたから。ほんとうは、たくさんコンサートに行って、たくさんグッズを買って、情報もぜんぶ追いかけて、そういうすぐれたファンであらねばならないという、ほかでもない自分が自分にいつしか課していた強迫観念が、目を曇らせていただけだったのに。

この二年弱、自分にとって唯一の何かに出会いたくて、焦るように貪るようにいろんなものを欲しがってきた。新しい人をたくさん好きになって、新しい物語にたくさん心惹かれてきた。そうやって出会ったなかに、この先も大事に愛おしんでいきたいと思えるものもたくさんあるけれど、でも、ひとつとしてジュンくんの代わりになる存在はなかった。唯一のもの、とっくに出会っていたんだ。その実感が、ずいぶん遠回りをして、今やっと私の中であるべきところに落ち着いたような気がする。考えてみれば、ジュンくんはいつだって私の心の頂点にいた。

理屈なんかなにひとつ通用しない。彼のつくる表情のひとつひとつ、踊る様の美しさ、佇まい、はにかみ、衣装のはためき、きらきらのまぼろし、夢、きらめき、彼の存在すべてが、心に並び立てた言葉をぜんぶ嵐みたいにかっさらっていく。好きだ。この人が大好きだ。あとにはそれしか残らない。ああそうだ、心を奪われるってこういうことだった。言葉にならないこと、言葉にできないこと。

アイドルという人間のあり方を、労働のいち形態にすぎないものとしてあつかうのは、あまりに浅はかだ。セブンティーンは、人生を賭けてセブンティーンをやっている。ファンはどうしたって彼らの人生を消費し搾取する立場で、その構造はいびつで暴力性をはらんでいて、好きでいるかぎりそこから逃れることはできない。だけどやっぱり、その重さを、ファンでいることの欺瞞を、構造へ加担することの怖さを引き受けてでも、好きでいたい。今こうしてジュンくんにふたたび心を奪われて、その幸福を、それきりで終わりにしたくない。彼らの見せてくれる世界をこれからも見ていたい。愛は感情じゃなく意志であり理性だ。彼が私の心を奪ってくれることをただ待っているだけでなく、私が彼を好きでいたいと願うことそのものが愛することだ。愛していきたい。