時の遁走

書いていないとだめだとわかっているくせに、どうしても気分が向かなくて遠ざけているうちにどんどん調子が悪くなっていて、ぬるい憂鬱がふわふわと私の周りを漂っている。つくづくわかりやすい体だなと愛おしさすらおぼえる。

先日、数年ほど顔を合わせていなかった相手とひさしぶりに話し込む機会があって、最近どうですかと尋ねられて、生きるのが楽になっちゃいましたと答えた。何も変わっていないような気がすることもあるけれど、自分が変わってしまったと感じることは多い。自分でも印象的だったのは、仕事で少々理不尽な思いをしたときのことだ。取引先から振られた話題が私の担当領域外だったから、その場での回答は差し控えて、担当チームの同僚に内容を共有したら、勝手に話を進めてくれるなと文句を言われた。むっとしたので、こちらで話を進めたつもりはないと言い返したら謝られた。昔の自分だったら、こういうときに言い返すことはできなかった。理不尽に耐え忍ぶのが美徳だとは思わないし、嫌味を言ってもいい相手だと侮られるのはまっぴらなので、それを拒む態度を見せたことに悔いがあるわけではないのだが、軋轢を生じさせかねない行為に対してためらいがなくなった自分がすこし怖いような気がする。こういう態度を他者に対してとるところから、他者を排斥するような差別に加担するところまでの距離は、たぶんそう遠くないだろうから。

ほんとうの私などというものは存在せず、相手や場所に適した私を使い分けているにすぎない、とは平野啓一郎のいう「分人」という考え方だが、そのとおり他者と話すときの私は、相対的に強い私としてふるまっている自覚がある。能力主義の傾向が強い会社の同僚や学生時代の友人らが相手であれば、なおのこと露悪的になりやすい(これは同僚や友人たちが「悪」で、私がそこに合わせているという責任転嫁ではなく、私にも能力主義に積極的に迎合する側面があるという話である)。そしてそのぶん、書くことでやわらかいほうの自分を保っている。文章を書いているその瞬間、世界には私しかおらず、文章の中で私を傷つけるのは私しかないから、怖くない。ゆえに、書けないというのは致命傷だ。天秤がどんどん傾いてしまう。強い言葉しか使えなくなる。心の外壁がばきばきに硬化して、何を読んだり見たりしても染み込まなくなってしまう。

書くという行為は私にとって存在証明であり、生存活動であり、排泄行為であるとたびたび書いてきたけれど、自分のなかの相反する要素のバランスをとるためのものでもあるのかもしれない。こうして書くことに意味を持たせるたび、さらに書くことは難しいものになる。書きたいという気持ちだけに突き動かされて書いていた頃が懐かしい。

このところ谷川俊太郎のエッセイの一節を頻繁に思い返している。

ゆとりとはまず何よりも空間のことである。ラッシュアワーの満員電車のように、心がぎゅうづめになっていてはゆとりはもてないだろう。心にぎゅうづめになっているものが何であるかは関係ない。それが欲であろうと、感情であろうと、思考であろうと、信仰であろうと、動かすことのできる空間が残っていなければ、息がつまる。(谷川俊太郎『ひとり暮らし』)

身軽になるというのがどういうことかわからないけれど、身軽になりたいという気持ちが漠然とある。ずっとぎゅうづめなんだと思う。もっと空白を受け入れなくてはならないのに、それが怖くてたまらない。動いていないといけない気がする。考えていないといけない気がする。ただそこにあるだけではゆるされないような気がする。これもまた生産性至上主義の呪いである。

友人に借りて読んでいるブッツァーティの『タタール人の砂漠』という本がずっと胸の奥にひっかかっている。私はこのまま砦に留まり続けるのだろうか。いつ訪れるのかもわからぬタタール人の襲撃を夢見て、いつか何者かになれると信じて、ほんとうはもう何者にもなれやしないのに。時の遁走はとっくにはじまってしまった。私が望もうと望むまいと、抗おうと身を任せようと、ページはめくられ続ける。物語の終わりに向かって。ならばせめて物語の筋書きを自分の望むとおりに書き換えようとする努力くらいはしなくてはならないはずなのに、ただ生活が忙しいふりをして、そこから目を逸らし続けている。